
白い薔薇の匂いは、しなかった。
目を開けると、色のない花が視界いっぱいに揺れていた。薔薇園だ。頬の下に、紙みたいな花びらの感触がある。匂いのない薔薇に埋もれて、未知留は倒れていた。

「気がついたか! ああ、よかった、本当に——」
白ウサギの顔が、ぬっと視界に入ってきた。耳が半分ほど垂れている。ずっとそばにいたらしい。
「……私、なんで」
「覚えていないのか」
覚えて、いる。断片だけ。
玉座の間。掲げられた兵の手のひら。ダイナの鳴き声。それから——壁一面の札が、一斉に明滅したこと。足元から闇が、水みたいにせり上がってきたこと。誰かに、ではなく、何かに飲み込まれた感覚。
そこで途切れている。
体を起こそうとして、右手が固いものを握っていることに気づいた。
杖だった。
赤いハートの頭。金の縁取り。ハートの上に、小さな金の王冠。黒い柄には、金のとげとげしたリングが巻いてある。子どもの玩具みたいな見た目なのに、握った手の中で、それは玩具ではない重さをしていた。
「……これ、何」
「杖だ」白ウサギの声が、急に慎重になった。
「見れば分かる。誰の」
「……昔、客人に貸し与えられていたものだ。この国で、ヒトの手にだけ扱える——」
白ウサギはそこで言葉を切って、杖をじっと見た。長いこと見た。何か言いかけて、口を閉じた。
「あんたが持たせたんじゃないの」
「私ではない」
即答だった。即答だったから、余計に分からなくなった。
「じゃあ誰」
「…………」
白ウサギは答えず、懐中時計を出して、開いて、すぐ閉じた。例の癖だ。答えたくないときも、この仕草をするらしい。
薔薇園を出て、二人は森の縁を歩いた。
城は丘の向こうに遠ざかっていた。尖塔の先の小さなハートの光が、振り返るたびに見えた。あそこで処刑されかけた。そのはずなのに、こうして外を歩いている。誰かが逃がした、と考えるのが一番筋が通って、一番筋が通らなかった。
「ねえ。私、殺されかけたんだよね」
「……ああ」
「なのに、なんで生きてるの」
「分からない。分からないことが、私は一番怖い」
白ウサギは前を向いたまま言った。冗談の調子ではなかった。
道の脇に、街灯が立っていた。ガス灯みたいな古い形で、火は入っていない。柱の途中に、ハートの形の彫り込みがあった。お茶会の会場で嫌というほど見た、あのマークだ。
未知留は足を止めた。
「これ、あちこちにあるよね。何なの」
「ハートマークだ。……そこに杖を向けて、振ってみたまえ」
「振る?」
「そういう道具なのだ、それは」
半信半疑で、未知留は杖をハートマークに向けた。振る、といっても、どう振ればいいのか分からない。ラケットみたいに? 指揮棒みたいに? ぎこちなく、手首だけで小さく振った。
街灯の火が、ぽ、と灯った。
「わ」
思わず声が出た。オレンジ色の、小さな火だった。色のない世界で、その一点だけが温かい色をしていた。

火は、三秒ほどで消えた。
「…………」
「…………」
白ウサギが、何とも言えない顔で街灯を見上げていた。
「……今の、失敗?」
「いいや。灯った。灯ったとも。ただ……」
白ウサギは言葉を選んだ。選んだ結果がこれだった。
「……そうか」
それきり黙ってしまった。慰められるより、その沈黙のほうがこたえた。時計の文字盤の、ほとんど空っぽの光の粒を思い出す。まだ何かを信じられる力。あれが燃料なら、いまの三秒が、たぶん未知留の全財産だった。
「言っとくけど」未知留は先に歩き出した。「別に、へこんでないから」
「何も言っていないが」
「顔が言ってる」
頭上のどこかで、くすくすと笑う声がした。姿は見えなかった。
兵に見つかったのは、森を抜けた直後だった。
道の先に隊列がいた。八体。こちらを向いて、止まった。先頭の札はハートの7。
「走りたまえ!」
白ウサギが叫ぶより早く、未知留は走っていた。
かちゃかちゃかちゃ、と背後で金属の音が立ち上がる。振り向かない。足だけ動かす。道が二股に分かれ、白ウサギが右へ跳ねたのについていく。生垣の間を抜け、崩れたアーチをくぐり——行き止まり。
いや、行き止まりではなかった。
そこは、広場だった。
石畳の円形の広場。真ん中に涸れた噴水。倒れた屋台の骨組み。柱という柱、壁という壁に、色あせた旗と——ハートマーク。ひとつやふたつではない。何十、何百。噴水の縁に、屋台の庇に、石畳のタイルに。この広場は、ハートマークで埋め尽くされていた。
「まずい、ここは袋小路だ——」
かちゃ、かちゃ。
アーチの向こうから、兵たちが入ってくる。八体。いや、もっと。囲むように広がって、こちらへ歩いてくる。
未知留は後ずさった。噴水の縁に背中が当たった。
兵たちが、迫る。手のひらを——まだ、掲げていない。槍も、構えていない。ただ距離を詰めてくる。それがかえって怖かった。玉座の間の、あの侍女の顔が札に覆われる瞬間が、頭の中で何度も再生された。
「く、来るな! 来るなと言っている!」
白ウサギが前に立って、精一杯耳を立てている。震えているのが後ろからでも分かった。
未知留は、右手の杖を握り直した。
考えたわけではなかった。祈ったのでもなかった。ただ、目の前が全部嫌で、怖くて、どうにかしたくて——腕を、大きく、振った。
世界が、灯った。
噴水の縁のハートが灯った。屋台の庇のハートが灯った。石畳のタイルが、柱の旗が、壁の彫り込みが、広場中のハートマークが一斉に、オレンジと桃色と金色の光を吹き上げた。涸れた噴水が光の水を噴き上げ、どこからか音楽が鳴り出した。オルゴールではない。笛と太鼓の、祭りの音楽。誰もいない屋台の影が、一瞬、賑わいの影に見えた。

兵たちが、止まった。
槍を取り落とした一体が、棒立ちのまま、光の噴水を見上げていた。
「——今だ! 走りたまえ!」
白ウサギに腕を引かれて、未知留は走った。立ち尽くす兵たちの間を抜けるとき、札の顔がどれも光のほうを向いたまま、微動だにしないのが見えた。
広場を出て、森に入って、それでもまだ、背中に祭りの音楽が聞こえていた。
森の奥の、小さな祠の陰で、二人はようやく止まった。
心臓がうるさかった。膝に手をついて息を整える。白ウサギは祠の上に跳び乗って、来た道を警戒している。追ってくる音は、なかった。
木々の隙間から、遠くの広場が見えた。
まだ、灯っていた。
オレンジと桃色の光が、夜色の森の向こうでゆっくり明滅している。祭りの残り火みたいに。
——きれい、って思っちゃった。
未知留は、その考えを頭から追い出そうとした。出ていかなかった。帰るんだ、私は。この世界がどうなろうと知ったことじゃない。ずっとそう思って——思おうと、してきたのに。
手の中の杖を見る。赤いハートは、何事もなかったみたいに澄ましている。
「ねえ」祠の上に声を投げた。「さっきの、何。街灯は三秒だったのに」
「……分からない」
「あんた、分からないばっかりじゃん」
「分からないことだらけなのだ、今日は!」白ウサギは耳を逆立てて、それから、ふっと声を落とした。「……だが、一つだけ言えることがある」
「何」
「空っぽの器ほど——」
白ウサギはそこで止めた。首を振った。
「——いや。こちらの話だ」
「またそれ」
言い返す気力もなかった。未知留は祠に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。
「ねえ、気づいてた?」
チェシャ猫の声が、すぐ耳元でした。びくりとしたが、もう驚かないことにした。
「……何が」
「あの兵たち。槍を、一度も向けなかったよ」
「…………」
言われて、思い返す。玉座の間では手のひらを掲げた。広場では——ただ、歩いて距離を詰めてきただけだ。囲んだだけ。振り上げられた槍は、一本もなかった。
「何それ。どういう意味」
「さあ? 僕はただの猫だから」
声は笑って、遠ざかった。代わりに、闇のどこかで三日月がひとつ、満足そうに細くなった気配がした。
未知留は膝を抱えた。分からないことが増えていく。杖をくれたのは誰か。なぜ殺されなかったのか。なぜ広場は灯ったのか。
そして一番認めたくない、分からないこと——灯った広場を見た瞬間、たしかに胸のどこかが、動いたこと。
遠くの広場では、光がまだ続いていた。
その光に引き寄せられるように、一体の兵が、ふらりと広場に入っていくのが見えた。クラブの札の顔が、光の噴水を見上げたまま——いつまでも、動かなかった。
(第4章 了)