
夜は、明けなかった。
祠の陰で膝を抱えたまま、未知留は空をずっと見ていた。オレンジと藍色の境目は、時間が経っても一ミリも動かない。眠ったのかどうかも分からない。まぶたを閉じても開けても、世界は同じ薄暮のままだった。
広場の灯りは、まだ残っていた。
木々の隙間の向こうで、オレンジと桃色の光がゆっくり呼吸するように明滅している。そして、その光の中に——あの兵が、まだいた。
クラブの札の顔。祭りの灯りを見上げたまま、彫像みたいに動かない。もう何時間も、ずっと。

「……まだ、見てる」
「見るな。関わるな。近づいてはならない」
祠の上で警戒を続けていた白ウサギが、間髪入れずに言った。耳がずっと立ちっぱなしで、疲れているのが分かる。
「あれは兵だ。いまは灯りに気を取られているが、我々を見つければ——」
「見つければ、何。槍も向けないのに」
白ウサギが、詰まった。
チェシャ猫の言ったことは、あれから未知留の中に居座り続けている。あの兵たちは、一度も槍を向けなかった。玉座の間でも、広場でも。
そして、もう一つ。もっと重いものが、胸の底に沈んでいる。
玉座の間で見た、あの侍女。名前を忘れて、輪郭が煙みたいに滲んで、顔が札に覆われて——兵の形に、上書きされた。
あの兵たちは、作られたのではない。されたのだ。
「……ねえ」未知留は立ち上がった。「あの兵、中に誰かいるんだよね」
白ウサギは、答えなかった。答えないことが、答えだった。
広場は、祭りの残り火の匂いがした。
匂い、というのは正確ではないのかもしれない。この国の薔薇に匂いはなかった。でも、灯りの中を歩いていると、たしかに何かが肌に触れる。賑わいの名残みたいなもの。音楽の余熱みたいなもの。
「待ちたまえ、待ちたまえって、ああもう!」
白ウサギが跳ねながらついてくる。「言っておくが私は反対だ! 反対だと記録しておいてくれ!」
「誰に」
「歴史にだ!」
兵は、噴水の前に立っていた。
近づいても、動かなかった。灯りの逆光の中で、それは兵というより、置き忘れられた人形に見えた。木偶のように分かれた関節。白い鎧に赤い縁取り。胸には大きなクラブの紋。そして顔には——クラブの10の札。
未知留は、三歩ぶんの距離で止まった。心臓がうるさい。玉座の間の記憶が、何度も再生される。掲げられる手のひら。札に覆われる顔。
それでも、逃げなかった。
間近で見る札の顔は、ただの札だった。すり切れて、端が折れて、古いトランプの札。その下に顔があるのかどうかも分からない。
「……あんた、誰だったの」
答えは、なかった。
兵は灯りを見上げたままだ。よく見ると、籠手の指が、微かに動いていた。音楽に合わせて、拍子を取るみたいに。
未知留は、右手の杖を見た。
赤いハートの頭。金の縁。この杖はハートマークを灯した。街灯を三秒、広場をまるごと。じゃあ——ヒトの形をしたものに向けたら、何が起きるんだろう。
「未知留くん」白ウサギの声が、急に静かになった。「……何をする気だ」
「分かんない」
正直に言った。帰るためじゃない。戦うためでもない。ただ、確かめたかった。この兵の中に、誰かいるのか。あの侍女みたいに、誰かが、いるのか。
未知留は、杖を構えた。
振り方は、もう体が覚えていた。
手首だけの、小さな一振り。杖の先が兵の胸の——クラブの紋の上を、そっと撫でるように通る。
音楽が、一段大きくなった気がした。
兵の顔の札が——薄れた。
紙が水に濡れて透けるみたいに、クラブの10の柄がゆっくり淡くなって、その下から、輪郭が浮かんできた。
顔だった。
若い男の顔だった。二十歳になるかならないかの、そばかすの散った、人の好さそうな顔。目は閉じたまま。でも口元が、灯りの温度をたしかに感じているみたいに、少しだけ緩んでいた。

未知留は、息をするのを忘れた。
男の唇が、動いた。
「——迷子は、灯りの下に集めるんだ」
掠れた、遠い、でもはっきりとした声だった。
「そうすりゃ、親のほうが見つけてくれる。……な、簡単だろ」
誰かに教えるような、優しい言い方だった。それきり、唇は止まった。
札が、戻ってくる。水面が閉じるみたいに、そばかすの顔の上にクラブの10が滲み出て、濃くなって——数呼吸のあとには、そこにはもう、ただの兵が立っていた。
灯りを見上げたまま。籠手の指で、拍子を取りながら。
気がつくと、未知留は石畳に座り込んでいた。
膝から力が抜けたのだった。杖を握った右手が、小さく震えていた。怖かったからではない。怖いのなら、まだよかった。
いま見たのは、そういうものではなかった。
「戻ったんじゃないよ」
チェシャ猫の声が、噴水の縁のあたりでした。姿はない。声だけが、いつもより少しだけ静かだった。
「思い出しただけ。……でも、いい顔してたね」
「…………」
「怒らないの? 僕はてっきり、泣くか怒るかだと思ってたけど」
「……どっちも、まだ決めてない」
それは本当だった。胸の中でいろんなものが渋滞していて、どれから出せばいいのか分からなかった。あの顔。あの声。迷子は灯りの下に。そうすりゃ親のほうが見つけてくれる。な、簡単だろ——
あれは兵じゃない。誰かだ。名前があって、仕事があって、たぶん誰かに、ああやって迷子の集め方を教えたことがある誰かだ。
この国には、倒していい敵が、いない。
「……最悪」
未知留は、両手で顔を覆った。「帰るだけって、決めてたのに」
白ウサギが、そばに来た。何か言うのだろうと思った。説明とか、慰めとか、講釈とか。
白ウサギは何も言わなかった。ただ懐中時計を出して、蓋を開けて、長いこと文字盤を見て、閉じた。
それから、一言だけ。
「……今のを、覚えておきたまえ」
「……何それ」
「こちらの話。——そして君の話だ。いつかね」
未知留は顔を上げた。広場の灯りは、少しずつ薄くなり始めていた。祭りの残り火が、燃え尽きようとしている。それでも兵は、まだ光を見上げていた。
——この国のこと。
——もう少しだけ、知りたい。
そう思ってしまったことを、未知留はもう、取り消せなかった。
立ち上がって、スカートの埃を払った、そのときだった。
「……いまの、あんたがやったのかい」
倒れた屋台の陰から、小さな声がした。

(第5章 了)