
城は、近づくほど大きくなるのをやめなかった。
丘の下から見上げたときは、せいぜい学校の校舎を積み重ねたくらいだと思っていた。門をくぐる頃には、首を直角に曲げても尖塔の先が見えなくなっていた。石の壁には、ところどころ色が残っていた。深い赤。ただしそれは、日に晒されつづけたポスターの赤だった。かつてもっと赤かったことだけが、分かる赤。
兵の隊列は、城門の前で歩を緩めなかった。開けろとも言わなかった。門のほうが、勝手に開いた。
「待ちたまえ! 私も行く! その子は私が連れてきたのだ!」
背後で白ウサギの声がした。振り向くと、二体の兵が交差させた槍の向こうで、白ウサギが跳ねていた。
兵は何も言わなかった。ただ、槍は動かなかった。
「客人のみ、ということか……くっ……」
白ウサギは槍の隙間から身を乗り出して、精一杯の声で言った。
「未知留くん! 何があっても——目を、そらさないでいたまえ!」
「……それだけ?」
「それが全てだ!」

門が、閉まった。
役に立たない助言だ、と未知留は思った。思いながら、両手をこぶしに握った。手のひらの擦り傷が、まだ少し痛んだ。痛みは、いい。痛いあいだは、これが夢じゃないと分かる。
玉座の間は、静かだった。
静かさにも種類がある。誰もいない静かさと、誰も喋らない静かさ。ここのは後者だった。壁際に兵が並び、天井は高く、暗く、そして——壁が、すべて札で埋まっていた。
トランプの札。何十枚。何百枚。整然と、隙間なく、標本のように。
未知留は足を止めて、見上げた。札の一枚一枚は暗くくすんでいたが、ずっと高い場所に一枚だけ、微かに光を帯びたものがあった。心臓の音みたいな、弱い明滅だった。
「進め、ということらしいよ」
どこからか、チェシャ猫の声がした。姿はない。壁際の闇が、一瞬だけ三日月の形に緩んで、すぐ消えた。
赤い絨毯の先、玉座に、その人は座っていた。
豪奢な、色褪せたドレス。城の壁と同じ赤。顔は、玉座の上の闇に沈んで見えなかった。見えないのに、視線だけは、はっきりと未知留の上にあった。
そして玉座の傍ら、台座の上の鳥籠に——黒い仔猫がいた。
「……ダイナ?」
考えるより先に、名前が口から出た。
仔猫が、顔を上げた。
丸くなっていた体がほどけ、金色の目がまっすぐ未知留を捉えた。籠の格子に、小さな前脚がかかった。

玉座の闇の中で、何かが動いた気配がした。女王が、身を乗り出したのだと分かった。
「——その名を、誰に聞いた」
初めて聞く女王の声は、低く、乾いていた。怒鳴っていないのに、床から響いてくるような声だった。
「……ウサギに」
「そう」
女王は玉座に沈み直した。「白の兎。百年かけて、ようやく連れてきたのが」
視線が、未知留を上から下まで、ゆっくりと撫でた。
「こんな目の子どもとは、ね」
「あの」未知留は喉に力を入れた。声が震えるのが、自分でも分かった。「帰り方を、聞きに来ただけなんだけど」
「帰り方」
「うん。……はい」
「ここへ来て、帰り方を訊いた客人は、お前が初めてだよ」
女王の声に、笑いに似た何かが混ざった。笑いではなかった。
「昔の客人は、皆、夢中で遊んだ。国中を駆けて、笑って、それはそれは——よく燃えた」
「……燃えた?」
「言葉の綾だよ」
女王は扇をゆっくりと開いた。骨の見える、古い扇だった。
「客人。お前は今、怖いかい」
「…………」
「正直にお言い」
「……怖い」
「よろしい」扇の向こうで、女王が頷いた。「怖がるといい。それが、この国への礼儀だ」
意味が分からなかった。分からないのに、腕の産毛が立った。
そのときだった。玉座の間の脇の扉が開いて、二体の兵が、誰かを連れて入ってきた。
最初、未知留はそれを、白い服の女の人だと思った。
違った。服が白いのではなかった。全体が薄いのだった。侍女の格好をしたその人は、輪郭が滲んでいた。濡れた絵筆でなぞられた水彩画みたいに、髪の先が、指の先が、少しずつ煙になって空気に溶けていた。
侍女は暴れなかった。兵に支えられるように玉座の前へ進み、絨毯に膝をついた。
「陛下」
侍女の声は、遠くの部屋から聞こえるみたいに掠れていた。
「もう、自分の名前が、思い出せません」
女王は、扇を閉じた。
長い沈黙だった。玉座の闇の中から、女王は薄れていく侍女を見下ろしていた。未知留の位置から、その表情は見えなかった。
「……よく持ちこたえたね」
女王が言った。労いなのか皮肉なのか、判別のつかない平坦な声だった。
そして女王は、立ち上がった。
「——首をはねよ」
「え」
未知留の声と、兵の動く音が重なった。
一体の兵が侍女の前に立ち、槍を——振り上げなかった。代わりに、手のひらを侍女の顔にかざした。
侍女の顔が、札になった。
白い長方形が顔を覆い、そこから体へ流れ、みるみるうちに人の形を上書きしていく。ドレスは鎧のかたちに固まり、滲んでいた輪郭は、硬い直線で引き直された。数秒後、そこに膝をついていたのは、顔に札を貼りつけた、他の兵と見分けのつかない一体だった。
そして、それとは別に——薄い光がひとつ、侍女の胸のあたりからこぼれて、女王の手の中に落ちた。
一枚の、札だった。
「やめてよ!」
気づいたら、声が出ていた。
玉座の間の全部の兵が、いっせいに未知留を向いた。女王も、手の中の札から目を上げた。未知留は膝が笑っているのが分かった。それでも言葉は、止まらなかった。
「その人、まだ喋ってた! 名前が思い出せないって、それだけで、なんで——」
「それだけ?」
女王の声が、初めて硬くなった。
「名を失くした者が次に失くすものを、お前は知らないから、そう言える」
女王は絨毯を進み、壁の前に立った。手の中の札を、空いた場所へ、静かに納めた。札は壁に触れると、他の札と同じ暗さに沈んだ。
「客人には分からないよ。分からないまま、帰るはずだった——昔の客人たちはね」
女王が、振り返った。
未知留は、目をそらしかけた。そらさなかった。ウサギの言葉を思い出したからではない。そらしたら、いま札にされたあの人が、本当に「なかったこと」になる気がしたからだ。
女王の足音が、近づいてきた。
女王は、未知留の目の前で止まった。
近くで見る女王は、遠目より、ずっと静かな顔をしていた。険しさを予想していたのに、そこにあったのは崖みたいな無表情だった。長い年月、風に削られて、それ以上崩れる場所が残っていない顔。
女王は身を屈め、未知留の目を、覗き込んだ。
検分だった。医者が傷を見るときの目に、似ていた。
「……その目」
女王が、囁くように言った。
「なるほど、ね。——兎め、とんでもないものを連れてきた」
「な、何」
「動くな」
未知留は動けなかった。女王の視線が未知留の目の奥を探るあいだ、玉座の間の空気が、きしむほど張りつめた。
その張りつめた静けさの中で。
未知留は、視界の隅に光を感じた。壁のいちばん高いところ。あの一枚が——さっきより強く、はっきりと、脈打つように光っていた。一度。二度。まるで、鼓動が速くなるみたいに。
女王も、それを見た。
未知留に、女王の表情は読めなかった。ただ、女王がゆっくりと身を起こし、一歩下がり、そして息を吸うのが分かった。
「客人」
女王の声は、玉座の間の隅々まで、静かに渡った。
「百年待った。……お前で、あってくれ」

「え——」
「——首をはねよ」
兵が、一斉に動いた。
槍ではなく、手のひらを掲げて。さっき、侍女に、そうしたように。
未知留は動けなかった。逃げる方向も、意味も、分からなかった。ただ白ウサギの言葉だけが、頭の中で鳴っていた。目を、そらさないで——
その時。
鳥籠の中で、ダイナが——初めて、鳴いた。
(第3章 了)