
放課後。今日は、国に行かない日。
市立図書館の郷土資料の棚は、二階のいちばん奥にあった。日に焼けた背表紙。誰にも借りられていない貸出カード。埃の匂いは、少しだけあの国の書架——札の壁を思い出させた。
「郷土資料、視聴覚資料、と……」
「その棚ではない。もっと下だ。自費出版の棚を探したまえ」
視界の端で、白ウサギが言った。閲覧席の隅、誰にも見えない位置で、器用に頁をめくっている。百年、こちら側で張り込みをしてきた兎は、図書館の使い方が未知留より堂に入っていた。
「客人だった者の文章はね、匂いで分かる。夢の話のはずなのに、妙に細部が具体的なのだ。カップの数とか、栗の焼き加減とか」
「なるほど」
「あとは、書き出しがたいてい言い訳から始まる。『これは夢の話である』と、わざわざ」
しゃがんで棚の下段を探っていると、頭の上から声が降ってきた。
「——七瀬さんだ。なにしてるの?」
ひなただった。腕に文庫本を三冊抱えて、癖のある前髪の下から、まん丸の目でこちらを見下ろしていた。
「……調べもの」
「なんの?」
「昔の、遊園地のこと」
我ながら怪しい答えだと思った。ひなたは二秒くらい首をかしげて、それから、あっさり言った。
「ふーん? 手伝う!」
詮索は、しなかった。この子はいつもそうだ。分からないものを分からないまま、隣にしゃがんでくれる。
見つけたのは、ひなただった。
「これ、なんか古くない?」
薄い、灰色の布張りの本だった。私家版らしく、奥付も簡素で、著者の名前は染みでほとんど読めない。題箋には、かすれた手書き文字で『古い庭の思い出』とだけあった。
頁を繰ると、白ウサギの言うとおりの書き出しがあった。
——これは、夢の話である。けれど私は、八十年経ったいまも、あの庭の栗の焼き加減を覚えている。
未知留は、息を止めた。
——庭のはずれに、くり売りの屋台があった。売り子は、針ねずみのおばあさんである。焼き栗は熱く、あまく、おばあさんは客の名をぜんぶ覚えていた。わたしの名も、二度目に行ったときには、もう覚えていてくださった。
「ねえ、これ……童話?」
「……うん。そんなとこ」
声が震えないように答えた。外の紙は、忘れないからね。本当だった。八十年前の紙の上で、老婆はまだ栗を焼いていて、客の名前をぜんぶ覚えていた。
そして、次の行で、未知留の目は止まった。
——おばあさんの名は、■■といった。
名前の箇所だけ、紙魚の穴と茶色い染みが重なって、読めなかった。
「うわ、肝心なとこ虫食いじゃん」ひなたが頁に顔を近づけた。「……あ、でも。最初の字、これ、ひらがなの『は』じゃない? ほら、この、はらいの残りかた」
言われてみれば——染みの縁に、「は」の右側の、はらいの尻尾だけが覗いていた。
は。
はな。はる。はつ。はま。はぎ。
一文字だけが、八十年の紙の上から、こちらを見ていた。

帰り道、ひなたは借りた文庫本を鞄に詰めながら、なんでもない声で聞いてきた。
「七瀬さんって、前の学校で仲良かった子とかいるの?」
「……いたよ。一人」
「へー。なんて名前?」
名前。
出てこなかった。
顔は浮かぶ。笑い方も、お弁当の卵焼きの形も、傘を半分こした雨の日も、浮かぶ。なのに、名前のあるべき場所が、するりと滑った。掴もうとすると、砂みたいに。
「……ど忘れした」
「あるよねー、そういうの」
ひなたは笑って、それ以上聞かなかった。詮索しない子で、よかったと思った。よかったと思ったぶんだけ、鞄の中のノートが、重くなった気がした。
翌日の放課後。今日の国までは、二十八分。
「——『は』、だって」
七輪の前で、老婆の手が止まった。
「外の紙に、あんたが書いてあった。栗は熱くて、あまくて、客の名前をぜんぶ覚えててくれた、って。名前も書いてあった。……虫が食ってて、最初の一文字しか読めなかったけど」
「…………」
「はな、さん?」
「違うねえ」
「はる、さん?」
「違う気がするねえ」
「はつ、さん? はま、さん?」
「あんた、それ楽しんでるだろう」
老婆の針が、ゆらゆら揺れた。笑っているのだった。未知留も、少し笑った。当てっこは全部外れた。それでも。
「……『は』、なんだって。あなたの名前、『は』から始まるんだって」
老婆は、長いこと黙っていた。
それから、七輪の縁のハートを、いつもの手つきで撫でた。熾火が——今日は、ひときわ明るく灯った。ぼ、と小さな音を立てて。炭の匂いの向こうで、何かの輪郭が、確かに一段、濃くなった気がした。
「……そうかい」
老婆は立ち上がって、寝床の奥から彫刻刀を出してきた。名前のびっしり刻まれた板の——いちばん隅の、空いた場所に、小さく、小さく、一文字。
は。
「一文字でも、名前は名前だ」
老婆は板を撫でて、こともなげに言った。
「百年ぶりだよ。この板に、あたしのものが増えたのは」

祠に戻って、未知留は随筆の続きを読んだ。図書館で借りてきたのだ。貸出カードには、八十年ぶんの空白の下に、未知留の名前だけがあった。
白ウサギが、隣で一緒に頁を覗いた。
——庭のいちばん奥には、お城があった。わたしはこわごわ門をくぐったが、こわいことは、ひとつも起こらなかった。
——女王さまは、わたしの名前を聞いてくださった。
——名前を言うと、女王さまは、よい名だ、と言ってくださった。それだけのことが、わたしは八十年、うれしいのである。
「……門番のおじいさんの言ってた通りだ」
「うむ」
白ウサギの声は、静かだった。懐かしさと痛みの、ちょうど中間の声だった。
頁をめくる。随筆の終わりの方で、インクの色が少し変わった。書き足された、後年の筆らしかった。
——後から行った子に、聞いた話がある。ある年から、あの庭は、こわい場所になったそうだ。女王さまが、こわい方になったそうだ。わたしは、信じていない。
——けれど、もしそれがほんとうなら、なにか、よほどのことがあったのだと思う。名前を聞いてくださる方が、理由もなく、こわい方になったりするものか。
最後の頁に、一行だけ。
——あの国の女王さまが、どうか、いまも、おやさしくありますように。
未知留は、本を閉じた。
八十年前の子どもの祈りが、誰にも借りられない棚で、ずっと女王を守っていた。国が忘れても、外の紙は忘れない。悪口ひとつ書かないまま。

その夜、未知留はノートに新しい頁を作った。
は(おばあさんの一文字)。刻んだ。
女王さまは、名前を聞いてくれた——外の紙にも書いてあった。
それから、少しだけ迷って、頁の下にもう一行。
ある年、なにがあった?
門番は言った。門は内側から閉まった。三日三晩。開いた時、陛下は、いまの陛下になっていた。
外の紙は言った。名前を聞いてくださる方が、理由もなく、こわい方になったりするものか。
「……次は、女王様の話だ」
誰にともなく言って、未知留はノートを閉じた。
(第18章 了)