
城の廊下は、静かだった。
ダイナが先を歩く。黒い小さな尻尾が、燭台の淡い光の下で、ゆっくり振れる。玉座の間へは、向かわなかった。ダイナが案内したのは、王の間へ続く長い廊下——その中程に立つ、一体の兵の前だった。
白い平面の鎧。木偶の関節。顔の札は——ハートの5。
「……この人?」
ダイナは、兵の足元に座って、未知留を見上げた。それが答えらしかった。
ハート。愛情深かった者のスート。
未知留は、鞄から随筆を出した。八十年前の祈りの紙。図書館の貸出期限は、まだ十日ある。
「聞きたいことが、あるの。……昔のこと。あなたが見たことを、話せる範囲でいい。……いい?」
断ってから、随筆を胸に当てて、振る。
祈りの紙は、いい残響を持っていた。
札の下から現れたのは、若い女中さんだった。
糊のきいたエプロン。きっちり結った髪。輪郭の端はまだ札の色を残していたが、その立ち姿は、百年前の礼儀のまま、まっすぐだった。
「——おや。お客様」
侍女は、深く、丁寧にお辞儀をした。
「ようこそお越しくださいました。……ああ、いけません。お茶も、お出しできませんのに」
「いい。気にしないで。……あなた、玉座の間にいた人だよね。私、見てた。あなたが……その、札に、なる日」
「はい。覚えております」侍女は、恥ずかしそうに微笑んだ。「お見苦しいところを。……名前を忘れますと、ああも、心細いものなのでございますねえ」
「聞きたいのは、もっと昔のこと」
未知留は、随筆を抱え直した。
「百年前。——最初の、首をはねよ、のこと」
侍女の微笑が、ゆっくりと、真顔になった。
「……あの晩の話を、お聞きになりますか」
「聞きに来たの」
侍女は、少しの間、目を伏せた。それから、語り出した。丁寧な、折り目正しい、百年前の女中の言葉で。
「あの子……お客様の、いちばん最初の、あのお嬢様がお帰りになった日の、夕暮れでございました。玉座の間に——小さく光る影が、現れたのでございます」

「影?」
「少女の形をしておりました。淡く光って、輪郭が、揺れて。……陛下は、玉座をお立ちになって、いつものように、お尋ねになりました」
名前を。
「『名を、聞こうか』と。……あの頃の陛下は、門を通る誰にでも、名前をお聞きになる方でしたから。物売りにも、楽師にも、迷子にも。それが陛下の、ご挨拶でございました」
侍女は、そこで一度、言葉を切った。
「少女は、答えました。——**『名前が、ないのでございます』**と」
廊下の空気が、冷えた気がした。
「正しくは、少女はこう言ったのです。『わたしは、置いていかれたものだから、名前は、持たせてもらえなかった』と。……そして、その言葉の間にも、少女の輪郭は、見る間に薄れてゆきました。この国では、名前のないものから、崩れます。名前のないものは——真っ先に、崩れるのでございます」
「陛下は、門をお閉めになりました」
三日三晩、と門番は言った。門は内側から閉まった、と。
「誰も、お入れになりませんでした。私も、扉の外に控えるだけで。……中からは、時折、お声が聞こえました。名前を、お与えになろうとする声が」
「名前を、あげようとした……?」
「はい。ひとつ、またひとつ。古い名前、花の名前、星の名前。……けれど、どの名前も、あの少女には、留まらなかったのでございましょう。あの子は——あの少女は、誰かの一部でございましたから。自分の名前を持つことが、できない生き物だったのでございます」
誰かの一部。
未知留は、胸の奥で、何かがきしむのを感じた。読者だけが知っている、と思っていた場所に、証言がまっすぐ触れてきた。
「二日目の夜からは、お声が、変わりました」
「変わった?」
「——子守唄に、なりました」
侍女は、目を伏せたままだった。
「名前が駄目なら、せめて、眠らせてやろうとなさったのだと思います。途切れ途切れの、古い子守唄でございました。三日目の夜まで、ずっと。……そして三日目の夜更けに、歌が、止みました」
扉が開いて。
「陛下のお手に、札が一枚、ございました。ハートの、エースが。……陛下は、私どもに、こう仰いました」
仕舞いそこねたものは、ひとつもない。
「それだけ、仰って。ご自分の手で、壁のいちばん高い場所に、お納めになりました。誰にも、触れさせずに」
侍女は、顔を上げた。
「翌朝から、陛下は——目の下に、赤いお化粧をなさるようになりました」
「…………」
「泣いた痕を、お隠しになるためだと。……私どもは、誰も、口にしませんでした。百年、誰も」

玉座の間に、女王がひとり、立っている。
手の中で、古い扇が、音もなく開かれる。
骨の透けた面。彩色は剥げ落ちて、絵の具の記憶だけが、まだらに残っている。それでも、目を凝らせば、線は分かる。子どもの筆で描かれた、丸い顔。への字ではない、大きく笑った口。頭の後ろに、太陽のつもりか、後光のつもりか、ぐるりと丸く並んだ、小さなハート。
下手くそな、似顔絵だった。
女王は、長いこと、それを見ていた。
壁のいちばん高いところで、札がひとつ、静かに脈打った。その真下で、黒い仔猫が丸くなって、開いた扇を見上げていた。
女王は、扇を——音を立てずに、閉じた。
祠に戻る頃には、薄暮の琥珀色が、いつもより少しだけ濃く見えた。
未知留はノートを開いて、書いた。
女王さまは、名前をあげようとした。三日三晩。
できなかったから、仕舞った。
赤い化粧は、泣いた痕。
書いてから、随筆の最後の頁を、もう一度開いた。
——あの国の女王さまが、どうか、いまも、おやさしくありますように。
八十年前の子どもは、正しかった。女王は、こわい方になったのではない。名前を聞く方のまま、名前を聞けなかった夜を越えて——こわい方をやると、決めただけだ。
「——外側の話は、聞けたね」
頭の上で、声がした。
姿はない。笑みもない。声だけの猫が、いつもより、少しだけ低いところにいた。
「じゃあ次は、内側の話をしようか」
「内側?」
「うん」
チェシャ猫は言った。
「あの晩、僕が、どこにいたか——って話」
(第19章 了)