
「今日は、留守番をさせてくれたまえ」
放課後の園のベンチで、白ウサギはそう言った。城門の日からずっと、こんな調子だった。喋る。冗談も言う。でも、耳の角度が、ずっと三度くらい低い。
だから未知留は、一人で階段を降りた。行き先は決めてあった。
「——時計屋、かい」
老婆は、焼き栗をひっくり返しながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「懐かしい呼び名を、どこで拾ってきたんだい」
「城門の、おじいさん。クラブのJの」
「ああ、あの大きいの」老婆の針が、しんみりと寝た。「……そうかい。あの人も、まだ覚えてたかい」
「ねえ。時計屋って、何。あの兎、時計の職人だったの?」
「職人は帽子屋んとこの家系さ。あの兎はね——合わせ屋だよ」
七輪の炭を撫でながら、老婆は語った。
百年前、まだ国に色があった頃。あの兎は毎朝、国じゅうの時計を合わせて回っていたのだという。腰に合わせ鍵の束をじゃらじゃら提げて、塔の時計、広場の時計、店々の柱時計、一本ずつ。
「この国の時間はね、昔から、よく迷子になるのさ。放っておくと、あっちの時計とこっちの時計が、別の時間を歩き出す。それを毎朝、揃えて回るのがあの人の仕事だった。……国でいちばん時間に几帳面で」
老婆は、そこで少しだけ間を置いた。
「——いちばん、時間に呪われた男さ」
「……審理って言うのも、聞いた」
「ああ。裁判所のかい。あの人は審理の日にゃ、山高帽をかぶってさ。妙に似合ってて、みんな笑いを堪えるのに苦労したもんだよ」
老婆は笑って、それから、笑いをすっとしまった。
「あんた。あの兎に、昔の話を聞くつもりだね」
「……うん」
「そうかい」老婆は栗をひとつ、未知留の手に載せた。「なら、これを持っておいき。話ってのは、あったかいものを挟むと、こぼれやすくなるからね」
丘の帰り道、頭の上で声がした。
「聞き込み、進んでる?」
「……あんたも何か証言してよ。百年、ぜんぶ見てたんでしょ」
「見てたよ。でも、僕から言えるのは、ひとつだけ」
チェシャ猫の声は、いつもの軽さのまま、少しだけ丁寧だった。
「あの兎はね、百年前——この国で、ただ一人だけ『外』に出られた住人だった。視界の端っこの生き物だから、世界の端っこをすり抜けられたんだ」
「…………」
「最初の客人を連れてきたのも、あの兎。……送り帰したのも、あの兎。僕が言えるのは、そこまで」
「なんで、そこまでなの」
「僕の話じゃないからだよ」声が、笑みの形に緩んだ。「でもね、ひとつおまけ。——あの兎、今日あたり、話したがってる顔をしてたよ」
猫は嘘をつかない。
未知留は、階段を登る足を、少しだけ速めた。
百年前の朝の話を、しよう。
私は毎朝、六十三本の時計を合わせて回っていた。塔の大時計に始まり、広場の日時計もどき、パン屋の鳩時計、栗売りの店先の柱時計。国の時間はよく迷子になる。迷子は、集めて、揃えて、送り届ける。それが私の仕事だった。時計屋、と皆は呼んだ。
その頃から、国は少しずつ、薄れ始めていた。
誰も口にしなかったが、時計を合わせる私には分かった。時計たちの迷子が、年々ひどくなっていた。時間が痩せていく国では、時計から先に道に迷うのだ。
ある朝、私は世界の端に、穴を見つけた。
視界の端にしか存在できない私だから、見つけられた穴だ。くぐると、そこは「外」だった。まぶしくて、うるさくて、時間が濁流のように流れる場所。私はそこで——あの子に、会った。
石段に座って、一人で絵を描いている子だった。
覗き込んだ私と、目が合った。合ってしまった。外のヒトに、私が見えるはずがないのに。
あの子は言った。「ウサギさん、お洋服きてる」と。
それから笑った。世界がひとつ、灯るような笑い方だった。
私は、招いた。
あの子がいた季節のことは、どう語っても足りない。国は生き返った。色が濃くなり、時計の迷子が減り、女王陛下は門で客人の名を聞き、広場では毎晩のように祭りがあった。お茶会は、いつでも6時に始まって、いつまでも終わらなかった。
だが、あの子は向こうの子だ。向こうには向こうの時間があり、家があり、夕食があり、明日がある。
だから、迎えに行く役は、いつも私だった。
門の外に立って、懐中時計を確かめて、確かめて——「時間だよ」と告げる役は。

閉園一時間前の遊園地は、音が半分になる。
メリーゴーラウンドの木馬が減速して、家族連れが出口へ流れて、街灯が順に点いていく。未知留はベンチを見つけた。園の隅の、古い、誰も座らないベンチ。第1章——じゃない、最初の夜、白ウサギが張り込みをしていた場所。
白ウサギは、そこにいた。傘を抱えて、暮れていく空を見ていた。
未知留は、黙って隣に座った。
甘栗の袋を、間に置いた。老婆の言うとおりにした。話ってのは、あったかいものを挟むと、こぼれやすくなる。
観覧車が二周する間、どちらも喋らなかった。
「……最後の日もね」
白ウサギが、口を開いた。
「いい天気だった。この国の夕方みたいな、蜂蜜色の日でね。お茶会は6時に始まって、私は例のごとく、門の外で時計を見ていた」
未知留は、相槌を打たなかった。打ったら、こぼれるものが止まる気がした。
「時間だよ、と告げた。あの子は出てきた。いつもは、少しだけ悲しい顔をして、それから笑って、手を振って、私と歩き出す。……その日は、違った」
「……泣いた?」
「泣いた」白ウサギは、傘の柄を握り直した。「帰り道の扉の前でね。帰りたくない、と言った。ここにいたい、と。……向こうに帰っても、ここのことを、ちゃんと覚えていられる気がしない、と。あの子は聡い子だったから、たぶん、分かっていたのだ。外の時間が、こちらの記憶をどう洗い流すか」
夕闇の中で、観覧車の灯りが一周した。
「私は、困った。困って、慌てて、それで——」
白ウサギは、そこで、長く黙った。
未知留は、待った。
「——夢だったと、思いたまえ、と言った」
声は、静かだった。この兎が本音を言うときの、あの静かさだった。
「夢だったと思えば、悲しくない。夢は、覚めるものだから。忘れても、罪ではないから。……そう言って、私はあの子の頭を、撫でたのだ。楽にしてやったつもりで」
「…………」
「あの子は、器用な子でね。言われたとおりに、した」
遠くで、閉園を告げる音楽が鳴り始めた。
「国が薄れ始めたのは、それからだ。私は最初、理由が分からなかった。時計の迷子が急に増えて、色が抜け始めて——ずっと後になって、知った。あの子は帰り際、この国に、忘れ物をしていったのだ。『ここを本気で信じていた頃の、自分』を。夢にするために、置いていくしかなかったものを」
「……それが」
「それが何になったかは——」白ウサギは、首を振った。「陛下の壁を、君はもう見ただろう。私の口からは、そこまでだ」
いちばん高いところの、脈打つ札。
私と、同じ目をしているという札。
「だから私は、探したのだよ。百年」白ウサギは、懐中時計を出して、開かずに、ただ手の中で握った。「あの忘れ物を、もう一度開けられる者を。同じ周波数の、鍵を。——君を探すのに、百年かかった、というのは、そういう意味だ」
「……前に言ってた。『前にも、こういう顔を見たことがある』って。あれ」
「あの子だよ」即答だった。「帰りたいと泣いた顔。……忘れていく顔。両方、あの子で見た。二度と見たくなかったものを、君で、二度も見た」
未知留は、甘栗の袋を開けて、ひとつ剥いて、白ウサギの手に載せた。
慰めの言葉は、探さなかった。探しても、ろくなものが見つからない予感がした。この兎は百年前、探して、見つからなくて、いちばん優しくて、いちばん取り返しのつかない言葉を掴んでしまったのだ。

「……あの子が、最後に何て言ったか、聞いていい」
白ウサギの耳が、ぴくりと動いた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「——まだ、言えない」
「そっか」
「言える日が来たら。……君に、最初に話すとも」
閉園の音楽が終わって、園内の灯りが半分落ちた。
「ねえ」未知留は、立ち上がりながら言った。「伝言、預かろうか」
「伝言?」
「あの子……の、忘れ物に。会えたら言いたいこと、あるでしょ。私、届けるの、慣れてるし」
針は進めなくても、茶は冷める。あの伝言から、全部が動き出したのだ。伝言なら、任せてほしかった。
白ウサギは、ベンチの上で、長いこと未知留を見上げていた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「いや。——これは、駄目だ」
「なんで」
「『時間だよ』の、続きがあるのだ」
白ウサギは、傘を杖にして、ぴょこんとベンチを降りた。
「あの日、言えなかった続きが。百年、練習してきた続きがね。……これだけは、預けるわけにはいかない。会ったときに、私が言う」
ゴーグルの奥の目が、まっすぐに未知留を見た。
「だから君、私を——そこまで、連れて行ってくれたまえ」
百年、連れて行く側だった兎が、連れて行ってくれと言った。
未知留は、頷いた。
「……いいよ。連れてく」
約束は、それだけだった。それだけで、十分だった。
帰り道、園のゲートを出たところで、白ウサギがふと、思い出したように言った。
「そういえば——昔の客人はね、何人か、帰ってからも書いたのだよ」
「書いた?」
「日記。随筆。子ども向けのお話。夢だと思っても、書かずにいられなかった者たちがいた。……こちらの国が何もかも忘れていく間、外の紙は、忘れないからね」
未知留は、足を止めた。
鞄の中のノート。「おばあさん(名前は預かり中)」の一行が、頭に浮かんだ。
国に記録がないなら——外に、あるかもしれない。

「……白ウサギ。図書室って、何時まで開いてたっけ」
(第17章 了)