
放課後。今日の国までは、二十九分。
年間パス、蔦の扉、螺旋階段。ひと月前は世界がひっくり返るほどの大事件だった道のりが、いまは通学路の続きみたいになっている。慣れというのは、たぶん、ちょっとした魔法だ。
「急ぎたまえ。現場が荒れていないうちに」
「現場って言い方、やめない?」
薔薇園は、先週のままだった。色のない白薔薇の海。そして、あの一輪の赤。
近づいて、未知留は気づいた。
赤が——増えている。
一輪だったはずの隣、つぼみがひとつ、半分だけ赤く塗られていた。塗りかけ、というのが正しい。花びらの上半分だけが赤くて、下半分は白いままだった。
「……途中で、やめてる」
「あるいは、途中で、戻ったか」
白ウサギの声が低かった。戻った。その言葉の意味を、未知留はもう知っている。
絵の具缶は、生垣の奥にあった。
古い、へこんだブリキの缶。縁に、乾いてひび割れた赤がこびりついている。隣に、毛先の固まった刷毛が一本、きちんと揃えて置いてあった。道具を大事にする人の置き方だった。
そして、その先に——兵が、立っていた。
白い平面の鎧。木偶の関節。顔には、すり切れた札。
ダイヤの、3。
兵は、動かなかった。ただ、塗りかけのつぼみの方を向いて、立っていた。籠手の指先に、赤い染みが残っていた。
「未知留くん」白ウサギが囁いた。「杖を使うのなら——」
「うん」
未知留は、杖を抜いた。それから、少しだけ迷って、兵に向かって言った。
「確かめたいことが、あるの。……起こすんじゃなくて、聞きたいだけ。いい?」
兵は答えない。答えないことは、もう怖くなかった。断ってから、振る。それが、この国で学んだ礼儀だった。
手首だけの、小さな一振り。
杖の先が、ダイヤの紋の上をそっと通る。

札が、薄れた。
すり切れたダイヤの3が水に濡れたように透けて、下から、若い顔が浮かんできた。
少年だった。ロディよりさらに若い。十五か、十六。そばかすはなくて、代わりに鼻の頭に、白いペンキの染みがあった。ペンキ汚れだらけの前掛け。職人見習いの、人の好さそうな顔。
目が、開いた。
「……あ」少年は、まばたきをした。「灯りだ」
「灯りじゃなくて、杖」
「杖かあ」少年はのんびり言った。「客人の杖だ。久しぶりに見たなあ」
そして、それきり札に戻る——はずだった。
戻らなかった。
少年はゆっくり首を回し、塗りかけのつぼみを見て、「ありゃ、途中だ」と頭をかいた。会話が、続いている。一言どころではなく、続いている。
「……おい」白ウサギの声が、裏返っていた。「おい、おい。解凍が、こんなに保つはずが——ない。ないのだ、こんなことは」
「静かにして。……ねえ、あんたが塗ったの? あの赤いの」
「うん、おれ」
少年はあっさり認めた。それから、少しだけ胸を張った。
「おれ、絵の具屋の見習いなんだ。……ここはさ、昔は『陛下の園』って呼ばれててさ。ぜんぶ——」
そこで、言葉が止まった。
少年の口が、何かの単語の形に開いて、閉じた。魚が空気を食むみたいに、二度、三度。
「……ぜんぶ、あの色だったんだ」
言えなかったのだ、と未知留は気づいた。色の、名前が。
少年は、もどかしそうにあたりを見回して、それから未知留の杖を指差した。ハートの頭を。金の縁取りの中の、深い赤を。
「それ。それの色」
「…………」
「園じゅう、ぜんぶ、それの色でさ。陛下が歩くとさ、花が濃くなるんだ。ほんとだよ? みんな言ってた。陛下の園は、国でいちばん——いちばん、その色だって」
少年の声は楽しげで、楽しげなまま、少しずつ静かになった。
「そのうちさ。色が、抜け始めた。端っこの花から、順に。……おれの親方は言ったよ。国が忘れられてるんだって。もう、どうにもならないんだって」
「……それで?」
「それで——おれ、夜のうちに、塗ったんだ」
「赤く?」
「違う」
少年は首を振った。
「白く、だよ。……あ」
言えた、というふうに、少年は自分の口を押さえた。それから、笑った。
「はは。そっちは言えるんだ。……そっか。そっちは、嘘の色だから、かな」
未知留は、何も言えなかった。
「まだらに抜けてくとこを、陛下に見られるくらいならさ。ぜんぶ塗っちゃえば、『最初から、こういう園だった』って思えるだろ。白い薔薇の園も、きれいだろ。……嘘はさ、塗りむらがなければ、嘘じゃなくなるんだよ」

「じゃあ、なんで」未知留は、赤い一輪を指した。「なんで今になって、あれを塗ったの」
少年は、少し黙った。それから、城の方角を——正確には、城の上の空を、見た。
「……あの札が、ああ言ってるから」
「言ってる?」
「聞こえない? どっく、どっく、って。ここんとこずっと、強いんだ。おれたち、あれが鳴るたびに、寝返りを打つみたいに、ちょっとだけ起きるんだよ」
どっく、どっく。
未知留は、城の尖塔を見た。ここからは光の点にしか見えない、あの札。私と同じ目をしているという、あの札。
「あれが強く鳴るようになってから、思ったんだ。——もうすぐ、戻していい気がするって。だから、練習。まず一輪。……下手になっててさ、はみ出しちゃった」
少年は照れくさそうに笑った。その輪郭が、ふ、と揺れた。
水面が閉じ始めるときの、あの気配。
「あ。時間だ」
少年は、自分の手を見て、他人事みたいに言った。指先から、白い札の色が戻り始めている。
「ねえ」未知留は、早口になった。「全部終わったら——色が戻ったら、さ。一緒に塗り直そう。あんたの園。手伝うから」
少年は、目を丸くした。
それから、ペンキ染みの鼻の頭を、指でこすった。
「……客人が、手伝うの? 見習いの塗りを?」
「だめ?」
「だめじゃない」少年は笑った。顔の上に、ダイヤの3が滲み出してくる。「じゃあ、約束だ。その時は、ちゃんと言うよ。——この色の、名前」
札が、閉じた。
そこにはもう、ただの兵が立っていた。ダイヤの3。籠手の先に、赤い染みだけを残して。
未知留は、絵の具缶と刷毛を拾い上げた。缶は軽くて、中身はほとんど残っていなかった。それでも、捨てて行くものには見えなかった。

「……白ウサギ。これ、預かっていい場所ある?」
「…………」
「白ウサギ?」
白ウサギは、ダイヤの3の兵を、まだ見ていた。ゴーグルの下の目が、忙しく何かを計算して、失敗して、また計算していた。
「——分からない」やがて白ウサギは言った。「解凍は、数呼吸で閉じる。百年、そうだった。今のは、どう数えても、二百呼吸はあった」
「いいことじゃないの?」
「いいことだとも。いいことのはずなのだ。……理由の分からないいいことほど、怖いものはないのだよ、未知留くん」
その夜、未知留のノートは、また一行増えた。
絵の具屋の見習いさん(ダイヤの3)。園を白く塗った人。約束:いっしょに塗り直す。
暗唱リストも、一行増えた。ロディ。おばあさん。ひなた。絵の具屋の見習いさん。名前の分からない人ばかり増えていくけど、役職でも、覚えていれば、覚えていることになる。おばあさんが、そう言っていた。欠片から数えるのさ、と。
宿題を開きかけて、ふと、ブレザーのポケットが硬いことに気づいた。
出してみると、それは一通の封筒だった。
厚い、少し黄ばんだ紙。封は、蜂蜜色の蝋で留められていた。入れた覚えは、ない。階段でも、園でも、こんなものを渡された覚えは——
開けると、カードが一枚入っていた。
文字は、なかった。代わりに、インクで時計の絵がひとつ、描いてあるだけだった。
針は、6時を指していた。
「……お茶会だ」
(第14章 了)