
月曜日の一時間目は、世界がうるさかった。
チョークが黒板を叩く音。誰かのペンが落ちる音。三列向こうの、堪えそこねたくしゃみ。前はぜんぶ、薄い水の膜の向こうでくぐもっていた音だ。膜が、破れている。転校して二週間と少し。この教室の音が、急に全部、自分の音になった。
——世界って、こんなに鳴ってたっけ。
あの夕方から、ずっとそうだ。
未知留は頬杖をやめて、隣の席を見た。
癖のある前髪。シャーペンの齧り跡。窓の外を見る横顔。顔も声も癖もぜんぶ覚えているのに、名前だけが穴になっている、あの子。
休み時間、未知留は、自分から話しかけた。
「ねえ」
隣の席の子が、驚いた顔で振り向いた。当然だと思う。転校からこっち、未知留から話しかけたことは、たぶん一度もなかった。
「……この前の、白い犬。覚えてる?」
「え? ……あ! 見たよね!? やっぱいたよね!?」
食いつきは、期待以上だった。
「あれ絶対犬じゃないよ、耳が長かったもん。ウサギだって、あたし言ったじゃん。ね、七瀬さんも見たんでしょ、正面から」
「……うん。正面から」
「でしょー!」
彼女は嬉しそうに机に身を乗り出した。名前の分からない相手と、こんなに簡単に話が続くことに、未知留は少しだけ動揺した。名前は穴のままなのに、会話は穴を飛び越えて進んでいく。
チャイムの前に、廊下から彼女の友達が顔を出した。
「ひなたー、次、移動教室だよ」
「はーい」
——ひなた。
未知留は、その二文字を、掴んで離さなかった。下の名前。ひなた。名字は、まだ出てこない。でも、ひなた。灯りみたいな名前だと思った。
放課後、担任に呼び止められた。
「七瀬ー。進路調査、お前だけまだだぞ」
「……すみません」
「白紙で出すか?」
前と同じ台詞を、先回りで言われた。皮肉のつもりらしかった。未知留は、少しだけ考えて、言った。
「——もう少し、待ってください」
担任が、変な顔をした。白紙で出していいですか、と言った生徒の答えとしては、たしかに変だったと思う。
帰り際、ひなたが手を振ってきた。
「七瀬さん、また明日ね」
「……うん。また明日」
ちゃんと、返した。返せた。
遊園地の窓口で、未知留は年間パスを買った。
お年玉の残りが、ほとんど消えた。窓口のお姉さんが「ご家族の分は?」と聞いてきたので、「一人です」と答えたら、少しだけ間があった。中学生が平日の夕方に一人で年間パス。変なのは分かっている。
でも、通うと決めたのだ。決めたものには、形がいる。
「豪気なものだね」
ゲートを抜けたところで、視界の端から声がした。ベンチの背もたれの上、傘を抱えた白い影。
「進路希望は白紙なのに、通園計画は一年先まで埋まっているとは」
「うるさい」
「褒めているのだよ」
白ウサギはベンチからひょいと降りて、未知留の斜め後ろ、視界の端の定位置についた。すれ違う人には、たぶん誰にも見えていない。夕方の園内を、中学生が一人で歩いているようにしか見えないはずだ。
「仕事は、どうなの」
「ぼちぼちだとも。今日は観覧車の下で、いいものを見た」
「いいもの?」
「若い父親がね、娘の綿菓子を一口もらって——泣きそうな顔で笑っていた。ああいうのが、いちばん良く燃える……いや、良く実るのだ」
言い直したのを、未知留は聞き逃さなかった。燃える。女王の言葉。この兎は百年、こっち側で、ああいう瞬間を集めてきたのだ。
園の奥。人気の絶えたエリア。蔦の絡んだ古いアトラクションの扉は、今日も少しだけ開いていた。
「ねえ。また、落ちるの」
初回の落下を思い出して、未知留は少し身構えた。十七数えても着かない、あの落下。
白ウサギは、首を振った。
「二度目からは、落ちない。——歩いて、降りられる」
「……何それ。どういう理屈」
「こちらの話、と言いたいところだが」白ウサギは扉を押さえて、少しだけ笑った。「今日は教えよう。落ちるのは、疑っている者だけだ」
扉の向こうに、下りの階段があった。初回には、なかったはずの階段だった。
未知留は、自分の足で、降りた。

「おや」
屋台の陰から顔を出した老婆は、未知留を見て、針をゆっくり立てた。
「おやおや、おや」
「……三回も言わなくていいでしょ」
「言うさ。言わせておくれ」老婆は前掛けで手を拭きながら、まじまじと未知留を見た。「——二度来た客人は、あんたが初めてだよ」
「え?」
「百年、屋台をやっててね。客人ってのは、来て、遊んで、帰る。それきりさ。……帰ってから、また来た子は、あんたが初めてだ」
初めて。
その言葉の重さを測りかねているうちに、老婆は七輪の前にしゃがんで、いつもの手つきで縁のハートを撫でた。炭が、じんわり灯る。
「あ、待って」
未知留は、鞄から紙袋を出した。駅前で買ってきた、天津甘栗。まだほんのり温かい。
「これ。……向こうの。お土産」
老婆の針が、ぴたりと止まった。
「食べて。冷めないうちに」
自分で言ってから、気づいた。六章で老婆に言われた言葉の、そっくり裏返しだった。食べな、冷める前に。あのとき手のひらに乗せられた熱で、未知留は泣きそうになったのだ。
老婆は、黙って一粒、受け取った。皺だらけの小さな手が、器用に殻を剥く。口に入れて、長いこと、噛んでいた。
「……向こうの栗は」やがて老婆は言った。「甘いんだねえ」
それだけだった。それだけの言い方が、いちばんこたえた。

帰りぎわ、未知留は指を折って暗唱した。ロディ。おばあさん(名前は、預かり中)。七瀬未知留。それから——
「ひなた」
「ん? 誰だい、そりゃ」
「向こうの、友達。……名前を忘れちゃった子の、思い出せたぶんだけ」
老婆は、栗の殻を剥く手を止めずに、言った。
「いい作法だ。——欠片から数えるのさ、名前ってのは」
薔薇園を抜けるのは、帰り道の近道だった。
色のない白薔薇の海。紙の花びら。見慣れた、静かな景色——のはずだった。
未知留の足が、止まった。
「……ねえ」
「うむ?」
「あれ」
生垣の中ほど。白、白、白の並びの中に。
一輪だけ——赤い薔薇があった。
咲いたのではない。染まったのでもない。近づいて見ると、花びらの縁から赤がはみ出して、隣の白い花びらに一滴、垂れて固まっていた。塗った、としか言いようのない赤だった。
白ウサギが、隣で立ち尽くしていた。耳が、ゆっくりと逆立っていく。
「……ありえない」
「綺麗じゃん、って言っていい場面?」
「よくない。よくないとも」白ウサギは薔薇に顔を寄せ、離れ、もう一度寄せた。「色が抜けるのがこの国だ。色が、増えることは——百年、一度もなかった。赤は、この国の色じゃ、なかったはずだ」
誰が。
何のために。
赤い一輪は、答えず、色のない海の真ん中で、静かに揺れていた。

扉を出ると、夕方の園はまだ夕方だった。
スマホの時刻。今日は、二十七分。
「……ほんとに便利。この通勤時間」
「通勤ではない」視界の端で白ウサギが言った。「通国、とでも言いたまえ」
「ダサ」
家に帰ると、夕食の匂いがして、「おかえりー」の声がして、未知留は「ただいま」を返した。この一往復にも、だいぶ慣れた。
自分の部屋。机の上の写真立ては、起きたままだ。
宿題を広げて、ふと、鼻歌を歌いかけた。最近よく聴いていた曲。イントロは出た。Aメロも出た。それで——
サビが、出てこなかった。
「……あれ」
曲名は言える。歌手も言える。ジャケットの色も、MVの踊りも覚えている。なのに、サビのメロディだけが、するりと滑る。掴もうとすると、砂みたいに指の間から落ちる。
この感覚を、知っている。
未知留は、しばらく手を止めていた。それから、ノートの隅に小さくメモを書いた。
赤いばら。だれ?
少し迷って、その隣に、もうひとつ。
ひなた。
名前は、書いておけば消えない。この国——じゃない、この世界の紙は、ちゃんと明日も同じ字のままでいてくれる。
「……また明日」
教室にも、ダークランドにも言える挨拶を、未知留は部屋の誰にともなく言って、ノートを閉じた。
(第13章 了)