
札の壁の裏側に、階段があった。
女王だけが使うのだろう、細い螺旋階段だった。ダイナが先を歩き、未知留が続き、白ウサギがしんがりを務めた。壁の裏を登っているのだと、途中で気づいた。石の壁の向こう側に、何百枚の札が眠っている。その一枚一枚の前を、通り過ぎていく。
不思議なことに——通り過ぎるたび、壁越しに、札が順に、微かに明るむのが分かった。
見られている、と思った。怖くはなかった。教室の視線とは、違うものだった。
階段は、壁の最上部に沿った細い回廊に出た。
そして、そこに、あの札があった。
近くで見るそれは、思っていたより小さかった。他の札と同じ大きさの、一枚のトランプ。ただし、光っていた。脈打つように。息をするように。
「…………」
未知留は、一歩、近づいた。
札の明滅が、少し速くなった。
もう一歩。
また、速くなった。
——違う。速くなったんじゃない。
「……合ってきてる」
自分の心臓に、手を当てる。とく、とく、と打つ鼓動。札の明滅。同じ拍だった。近づくほど、二つの拍が、ひとつに揃っていく。
「……響いて、いる」
背後で、白ウサギが囁いた。祈りとも、怯えともつかない声だった。
未知留は、手を伸ばした。
伸ばした指先が、札まであと少し、というところで——
世界が、鳴った。
音のない音だった。耳ではなく、胸の内側で鳴る音。札の光が跳ね上がり、壁じゅうの札が一斉に明るみ、白ウサギの懐の時計が、蓋も開けていないのに、りん、と震えた。膝から、力が抜けた。焚火に近づきすぎたときみたいに、体の内側の何かが、ごうっと吸い出されて——

「——下がれ」
女王の声が、初めて、鋭かった。
同時に、黒い小さな影が、未知留と札の間に割って入った。
ダイナが、鳴いた。三度目の声だった。短く、強く、叱るみたいに。
共鳴が——凪いだ。
札の光がすうっと落ち着いて、いつもの静かな明滅に戻る。未知留は回廊の床に膝をついたまま、荒い息をしていた。額に汗が浮いていた。この国に来て、初めてかいた汗だった。
「……いま、の」
「……今日は、ここまでだ」
女王は、それだけ言った。理由は、言わなかった。
ダイナが、札の真下に座り直した。番をするように。何百年もそうしてきたように。
回廊を降りながら、白ウサギが、静かに言った。
「未知留くん。君は、聞かなかったね」
「何を」
「私の時計の針が——真夜中に落ちたら、どうなるか」
未知留は、足を止めなかった。止めたら、聞けなくなる気がした。
「……国が、消えるんでしょ」
「消える、なら、まだよかった」
白ウサギの声は、平坦だった。平坦であることに、力がいる声だった。
「なかったことに、なるのだ。最初から。……誰の夢でもなく、誰の記憶でもなく。この国があった、という事実そのものが、消える。あの壁の札も——仕舞ってあった、という事実ごと」
未知留は、壁の裏の暗がりを見た。
ロディ。名前を刻んだ板のおばあさん。灯りの点け方だけ覚えていた、あの灯り守。名前を数えて生きてきた人たちの、その数えた名前ごと、なかったことになる。
「……それ、いつ」
「分からない。だが、遠くない」
それきり、誰も喋らなかった。螺旋階段の足音だけが、長く続いた。
玉座の間の奥に、その扉はあった。
拍子抜けするほど、普通の扉だった。古い木の、飾りのひとつもない、遊園地の従業員通用口みたいな扉。豪奢な玉座の間の隅で、そこだけ埃をかぶって、百年、忘れられたみたいに立っていた。
「帰り道、というものは」女王が言った。「たいてい、こういう顔をしているものだよ」
女王が、扉に手をかざした。
錠の音はしなかった。ただ、扉が——ひとりでに、開いた。
向こうには、埃っぽい闇があった。闇の奥の奥に、細い、夕方の色をした光の筋。オルゴールの音は、しなかった。代わりに、遠くから、かすかに——現実の音がした。人の声。機械の駆動音。誰かの笑い声。
未知留は、杖を、女王に差し出した。
「これ。……返す」
「持っておいで」
女王は、受け取らなかった。
「客人の道具は、客人の手に。——言ったはずだよ」
未知留は、杖を引っ込めた。ブレザーの内側に、そっと差した。重さが、妙に馴染んだ。
扉の前で、白ウサギが隣に並んだ。女王が扉を押さえている。誰も何も言わなかったが、未知留はふと思った。この並びは、たぶん、百年前と同じなのだ。扉を開ける女王。客人と並ぶ、白い兎。

「客人」
敷居をまたぐ寸前、背中に、女王の声が当たった。
「——また、怖がりに来るかい」
未知留は、振り返った。
女王は、玉座の間の暗がりの中に立っていた。ハートの後光は色褪せて、扇は閉じられて、その表情は、最後まで闇の中にあった。
「……また来る」
かも、は付けなかった。
女王が、何か答えたかどうかは、分からない。扉が、静かに閉まったからだ。
玉座の間に、女王がひとりで戻った。
「……行ったかい」
「うん」
闇のどこかで、声がした。姿はない。いつものことだった。
「戻ってくると、思うかい」
「賭けようか、陛下」
「……約束かい」
「——予言だよ」
女王は、それ以上聞かなかった。玉座には座らず、壁のいちばん高いところを、長いこと見上げていた。
高い壁で、札がひとつ、静かに脈打った。
行きは、あんなに長く落ちたのに。
帰りは、一歩だった。
敷居をまたいで、埃っぽい闇を抜けて、蔦の絡んだ重い扉を押したら——そこはもう、夕方の遊園地だった。
音が、洪水みたいに押し寄せてきた。回転する木馬。軋む観覧車。チュロスの匂い。石畳を走る子どもの靴音。誰かの笑い声。全部が大きくて、色が濃くて、うるさくて——未知留はしばらく、扉の前から動けなかった。
世界って、こんなに鳴ってたっけ。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面が、点いていた。息を吹き返していた。通知はあの日のまま——『ごめん! 全員行けなくなった!』——そして、時刻表示。
未知留は、数字を二度、見た。
入園してから、三十分と少ししか、経っていなかった。
「……嘘でしょ」
あの全部が。お茶会が、城が、老婆の栗が、帽子屋の百年が、札の壁が——こっちの三十分。
なかったこと、みたいじゃん。
そう思いかけて、未知留は画面を見直した。
——ううん。違う。
三十分、進んでる。ゼロじゃない。私が向こうにいた時間は、こっちでも、ちゃんと流れてた。ほんの少しでも。なかったことには、なってない。
それが、なぜだか、泣きたいくらい大事なことに思えた。
「——送り届けたよ」
視界の端で、声がした。ガードレールならぬ、園内のベンチの背もたれの上。白ウサギが、傘を抱えて座っていた。
「百年ぶりに、二人目だ」
「……一人目は?」
「——こちらの話」
いつもの答えだった。いつもの答えが、今日はやけに、重かった。
「私はしばらく、こちら側にいるよ」白ウサギは、ゴーグルの位置を直した。「視界の端に、ね。……用があれば、呼びたまえ」
「呼び方、知らないけど」
「君はもう、知っているとも」
白ウサギは、それだけ言って、ベンチの向こうへ滑るように消えた。
家に着くと、夕食の匂いがした。
「おかえりー。早かったね」
台所から、母の声だけがした。
早かったね。
未知留は、玄関で少しだけ立ち止まった。それから、言った。
「……ただいま」
ただいま、を言ったのが、ずいぶん久しぶりな気がした。実際は、三十分ぶりの外出だった。
自分の部屋は、出ていったときのままだった。段ボール。ベッド。机の上には、白紙のままの進路希望調査。
そして、伏せたままの、写真立て。
未知留は、鞄を置いて、机の前に立った。
手を伸ばして——写真立てを、起こした。
幼い自分が、笑っていた。両手で掲げた画用紙には、クレヨンの長いテーブル。ウサギと、大きな帽子の男と、にっこり笑った猫が、お茶を飲んでいる。
ウサギの耳の伏せ方も、帽子の傾きも、猫の笑い方も——今なら、全部、知っている。
「……また来るから」
写真の中の自分に言ったのか、絵の中の三人に言ったのか、自分でも分からなかった。たぶん、両方だった。

窓の外は、もう暮れていた。街灯が、ぽつりぽつりと灯りはじめる。
その灯りのいちばん端、視界のいちばん端で——白い影が、恭しく、一礼した。
針が真夜中に落ちるまで、あと少しだけ、時間がある。
(第12章 了)
(第1期 了)