
放課後。今日の国までは、三十一分。
招待状は、鞄の内ポケットに入れてきた。時計の絵がひとつ。針は6時。差出人の名前はないけれど、この国で時計の絵を寄越す相手は、一人しか思いつかなかった。
蜂蜜色の灯りは、今日も丘の向こうから見えた。
生垣の切れ目の三歩手前で、白ウサギが止まる。ここまでは、いつも通り。
「……行ってくる」
「うむ。——ああ、未知留くん」
「何」
「もし茶会が『同じ』でも、気を落とさないでやってくれたまえ。ループというものは——」
「知ってる」
未知留は、切れ目をくぐった。
テーブルの端で、三月ウサギが跳ね起きた。
「お茶が先! 質問はミルクのあと!」
台本どおりだった。ポットの蓋がぱかっと開いて、眠りネズミが顔を出し、引っ込む。それも台本どおり。この会場の賑やかさは、今日も一字一句、あの6時のままだ。
でも。
テーブルの真ん中で、帽子屋は——立ち上がらなかった。
両手を広げもしなかった。お客さんだ、とも言わなかった。ただ、静かにこちらを見て、帽子のつばを少しだけ持ち上げた。
「……来たね。淹れてあるよ」
テーブルの上に、カップが二つ、並んでいた。
片方からは、湯気が立っていた。
片方からは、立っていなかった。

「そっちが君の。温かいうちに、どうぞ」
未知留は、勧められた席に座った。一度目は座らされ、二度目は座らず、三度目の今日は、自分から座った。紅茶はちゃんと熱くて、ちゃんとおいしかった。
「そっちのは?」
湯気のない方のカップを指す。帽子屋は、それを両手で包むように持ち上げた。
「僕の。……冷めた茶の味を、確かめてるんだ」
「わざと冷ましたの?」
「うん。毎回ね、一杯だけ」
帽子屋は、一口飲んだ。顔をしかめるかと思ったら、しなかった。味わうように、ゆっくり飲んだ。
「……どんな味?」
「渋いね。それから、少し、寂しい味がする」帽子屋は言った。「でも、飲めない味じゃ、ないんだよ。それが分かったのは、収穫だなあ」
冷めた茶の味を確かめる。針は進めなくても、茶は冷める、と言われた男が。
未知留はそのとき、帽子屋の胸元に気づいた。ベストのポケットから、飴色の懐中時計が覗いている。針は、6時のまま。
でも——蓋が、開いていた。
開けっぱなしの蓋が、歩くたび胸元で揺れるままになっていた。しまい込まれてもいない。閉じられてもいない。ただ、開いている。
「ねえ、お嬢さん」
二杯目を注ぎながら、帽子屋は言った。
「——いま、本当は、何時だい?」
同じ質問。八章の夜、この人が百年ぶりに口にした、あの質問。あのとき未知留は、答えを持っていなかった。
今日は、少しだけ持っている。
「スマホは、ここじゃ動かないけど」未知留は、体の中の時間を探った。学校を出て、園を歩いて、階段を降りて。「……夕方の、五時すぎ。くらいだと思う」
「五時すぎ」
帽子屋は、その言葉を、口の中で転がした。
「……五時、か」
それから、湯気のないカップを見つめて、ぽつりと言った。
「じゃあ、あと一時間だね」
未知留は、息が止まった。
あと一時間で、6時。彼の6時。百年止まったままの、いちばんいい時間。それを「あと一時間」と数えるということは——この人の中で、時間が、6時に向かって流れ始めているということだ。止まった場所としての6時ではなく、これから来る時刻としての6時。
「……そうだ、おばあさん。栗売りの」未知留は、声が湿りそうになるのを堪えて、話題を継いだ。「元気だったよ。この前、甘栗食べてた。向こうの栗は甘いんだねえ、って」
「そうか」
帽子屋は、笑った。
「百年ぶりに、聞いたな。あの人の近況」
百年ぶりに。
最近、顔を見ないねえ——と言った人が。百年、と言った。自分の口で。

だから、期待してしまったのだ。
帽子屋の手が、胸元の懐中時計に伸びたとき——未知留は、心臓が跳ねた。竜頭に指がかかる。巻くのか。いま、自分で、針を。
指は、竜頭の上で、止まった。
長い、長い数呼吸だった。
「……やっぱり、今日は6時にするよ」
帽子屋は、手を下ろした。蓋は、開けたままで。
「……どうして」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。でも帽子屋は、怒らなかった。いつもの、あの善意百パーセントの顔で、こともなげに言った。
「あの子が来るまでは、僕は6時の男だ。——それだけの話だよ」
それだけの話。女王と同じ言い回しで、まるで違う温度のことを言う。この国の人たちは、そういうところが、よく似ている。
「でもね」帽子屋は、少しだけ声を落とした。「ひとつ、思い出したことがある。……僕が時間を止めたあの日。三月はね——自分で、椅子に座ったんだよ」
「……え?」
「逃げなかった。ネズミも、ポットに自分で入った。……僕は、巻き込んだとばかり、思ってたんだけどなあ」
帽子屋は、それきりその話をやめた。三月ウサギは、テーブルの端で「ミルク!」と叫んでいた。台本どおりに。台本どおりのまま、百年前のあの日、自分で椅子に座った。
会場を出ると、白ウサギが門のところで待っていた。
「……どうだった」
「淹れて、待っててくれた」
「そうか」
白ウサギは、長いこと黙って歩いた。丘を半分登ったあたりで、ようやく言った。
「彼は、変わり始めている。百年動かなかったものが、動き始めている。——いいことなのか、私には、まだ分からない」
「いいことだよ」
「そう言い切れる君が」白ウサギは、伏せた耳のまま、少しだけ笑ったようだった。「……時々、まぶしいよ。私には」
「あ、待って、お嬢さん!」
生垣の切れ目を出たところで、呼び止められた。
振り向くと、帽子屋が箱を抱えて追いかけてきていた。深い緑の、上等な帽子箱。蓋に金の線で、小さく飾りが入っている。
「届け物を、頼まれてくれないか」
「……届け物?」
六章の老婆の言葉が、頭をよぎった。そのうち嫌でも通るだろうから、頼まれとくれ。この国の用事は、いつも誰かの「ついで」に載って運ばれていく。
「城門にね、古い友人がいるんだ。大きな図体の、優しいやつでね。——これを」
箱の蓋を、帽子屋は少しだけ開けて見せた。
中には、灰色の山高帽が入っていた。艶のある、丁寧に作られた、静かな帽子。薄紙に包まれて、百年前からそこにいたみたいに、行儀よく収まっていた。
「注文の品なんだ。……百年、納品が遅れててね」

未知留は、箱を受け取った。軽いのに、重かった。
「確かに、届けます」
「うん。——ああ、それと」
帽子屋は、帽子のつばを持ち上げて、あの歌うような調子で言った。
「配達料は、着払いで。次の6時に、お茶を一杯」
(第15章 了)