
赤い紙片は、雪より静かに街を埋めた。
一枚が看板へ触れると、手書きの文字が活字へ変わった。
一枚が石畳へ落ちると、ひび割れが消えた。
一枚が人の肩へ触れると、その人の名前が役割へ置き換わった。
御詠市は美しくなっていった。
曲がった標識は正面を向き、坂道は歩きやすい角度へ均され、古書店の本は背の高さまで揃う。洗濯物は同じ方向になびき、時計は一秒のずれもなく時を刻んだ。
その代わり、どこにも書き直せる場所がなかった。
「水野さん!」
しおりが呼び止めた少女は振り返った。
名札には《発表に失敗した人》とある。
あかりは破れた原稿を捨て、もう人前では話さないと決めた顔をしていた。

三枝こよみの名は《声を出せない合唱者》。白井ひなたは《完璧な朗読代表》。久我れいは《正しい進路を選ぶ人》。
音羽家の窓辺では、奏太の一音が鳴る直前で止まっている。
真波駅跡のロッカーには、《未送・不要》と赤字を入れられた手紙があった。
「私たちが見つけた言葉が、消されてる」
かなでがあかりへ呼びかけても、声は整った街の雑音として吸収された。
すずの地図から寄り道が消え、現在地と目的地を結ぶ直線だけが残る。
ゆいの傷は肌から消えていた。けれど、赤いリボンを誰から受け取ったのかも思い出せない。
「返して」
ゆいの声が低くなる。
「傷じゃない。私が覚えてたものを」
街の中心で、巨大な本が開いた。
ページには御詠市のすべてが印刷されている。家も、人も、過去も未来も。最後のページには赤い句点があり、その横にマドカが立っていた。
「御詠市、最終校了」
朱の万年筆が句点を打つ。
街の空が表紙になって閉じ始めた。
四人は変身し、ページを支えた。

かなでの旋律は完成された楽譜へ固定され、即興の音を失う。ゆいの赤い糸は決められた縫い目しか通れない。すずの羅針盤は一つの方角から動かない。
しおりは、これまでのルビを書いた。
《はじまり》《祈り》《証》《旅人》《願い》《余白》《問い》《約束》《余韻》《旅路》
マドカの赤字が、そのすべてを校正する。
《再発防止》《無言》《欠陥》《道順不明》《達成目標》《未記入》《未回答》《未履行》《無音》《遠回り》
「人は、せっかく救われてもまた迷います」
マドカは悲しそうに言った。
「ならば最初から、迷わない一文にすればいい。失敗しない。傷つかない。続きを待たない。これが完成です」
しおりは閉じていく街を見た。
あかりはもう一度話すことができない。こよみは歌う前の沈黙から動けない。れいは問いを持てない。奏太の一音には、次を選ぶ時間がない。
正しく整っている。
けれど、誰の続きをも許さない。
空中に中心語が現れた。
完成
「完成は、救いになることもある」
しおりはペンを持ち直す。
「でも、誰かが続きを選ぶ前に閉じる完成は――」
終幕
「それは、物語を奪う終幕だよ」
一瞬、表紙が止まった。
余白のない完成稿に、細いひびが入る。
そのひびから黒い影が引き寄せられた。
「テン!」
テンの体が宙へ浮き、巨大な本の表紙へ吸い込まれていく。読点形の尻尾だけが、ひびへ引っかかった。

マドカは彼を見上げた。
「戻りなさい。あなたが生まれた場所へ」
テンは爪を立てながら、しおりを見た。
「ごめん。ずっと言えなかった」
黒い毛の間から、紙の繊維のような光がこぼれる。
「ぼくは猫だったわけじゃない。円花が未完成ノートの最後に残した、一つの読点だった」
幼い筆跡が空へ映る。
《そして、》
「句点を書けなかった。終わらせたくなかった。だから、ぼくが生まれた」
「未完成の原因です」
マドカが赤字を引く。
「不要な読点を削除すれば、世界は閉じられる」
テンの体が表紙へ変わっていく。
しおりは手を伸ばしたが、届かない。
「しおり」
テンはいつもの皮肉な笑い方をしようとして、失敗した。
「読点は、答えじゃない。次の言葉が来るっていう約束でもない。ただ、まだ終わりじゃないっていう印なんだ」
尻尾の先が吸い込まれ、表紙が閉じた。
街から最後の物音が消えた。
四人の変身が解ける。ノートも地図も手紙も、すべて赤字で埋められていく。
しおりの手元には、国語の作文だけが残った。
《かもしれない》も《まだ》も削られ、最後の行まで完成された文章に直されている。
それでも紙の端に、ほんの少しだけ白い場所があった。
印刷機がつかめなかった、切り落とされるはずの余白。
しおりは折れかけた鉛筆を拾う。
句点ではなく、読点を書く。
、
小さな印から、黒い尻尾のような光が伸びた。
表紙の内側に、一本の道が開く。

かなでがその前で呼吸を合わせ、ゆいが三人の手を赤いリボンで結び、すずが地図にない道を記録する。
四人は、閉じられた本の中へ飛び込んだ。
しおりのノートの最後には、赤字に隠れながら一文だけ残った。
しおりのノート
完成 → 終幕
完成は、救いになることもある。 でも、誰かの続きを閉じる完成は、終幕になる。 余白はまだ残っていた。読点を書いた。止めるためじゃなく、続けるために。
巨大な本は閉じた。
けれど、背表紙の隙間から小さな読点の光が漏れていた。