
閉じられた本の中に、四つのページが浮かんでいた。
かなでのページには、音のない五線譜がある。
ゆいのページには、宛先のない手紙。
すずのページには、目的地へ届かない地図。
しおりのページには、最後まで書かれていないノート。
「一人ずつ、完成させろってことかな」
かなでが五線譜へ手を伸ばす。
触れた途端、《正しい終止音》が現れた。そこへ一音置けば、曲は美しく閉じる。
かなでは首を振った。
「今は、鳴らさない」
休符の横へ、小さな空白を残す。
「次の音は、聞いてから決める」
ページが開いた。
ゆいの手紙には、《届かないため破棄》の赤字がある。
ゆいは破らず、封筒へ戻した。
「住所はまだ分からない。でも、持ってる」
赤いリボンで封を結ぶと、次のページが開く。
すずの地図には、最短経路が一本だけ示されていた。
「正確ですが、私たちの歩いた道ではありません」
彼女は迷った線をすべて書き戻し、地図の外まで鉛筆を走らせた。
しおりのノートには、完成された結末が印刷されている。
《少女たちは本当の名前を取り戻し、二度と迷いませんでした。終》
しおりはそのページを閉じた。
「二度と迷わないなんて、私たちの話じゃない」

四つのページが重なり、未完成ノートの部屋へ変わった。
天井まで積まれた原稿。途中で途切れた物語。出せなかった手紙。名前の消えた写真。
部屋の中央で、テンが赤い表紙に縫い止められていた。
その前に、マドカが立っている。
朱の万年筆を握る手は、もう隠せないほど震えていた。
「なぜ戻ってきたのです」
「続きを読みに」
しおりが答える。
「ここにはありません」
「ないなら、どうして閉じ込めるの?」
マドカの背後で、一冊のノートが開いた。
部屋が、昔の図書館へ変わる。
窓辺に二人の少女がいた。
一人は円花。膝の上に書きかけの物語を置き、赤い鉛筆で何度も消している。
もう一人は佐伯なぎさ。円花が書いた最初のページを大切そうに読んでいた。
「続き、できた?」
「まだ」
「じゃあ、待ってる」
なぎさは急かさず笑った。

けれど円花の机には、誰かが入れた赤字が残っていた。
《未完成のものに価値はない》《人に見せるなら完成させなさい》
円花は続きを書くたび、最初から直した。直すほど物語は整い、先へ進まなくなった。
なぎさが遠くへ行く日、円花はノートを渡せなかった。
「完成したら送る」
そう約束した。
けれど、完成しなかった。
手紙の宛先は古くなり、返事を待つ時間だけが長くなった。円花は、待たせている自分も、続きを待っているなぎさを想像することも、怖くなった。
やがて自分の名前へ赤字を引いた。
《円花――未完成の作者》
その下へ、新しい役割を書いた。
《編集長マドカ――すべてを完成させる者》
記憶が閉じる。
マドカはしおりたちを見なかった。
「完成させれば、待たせません。期待させません。届かなかった続きを、何度も考えなくてすむ」
「なぎささんのことを、忘れたかったの?」
「忘れるべきでした」
「それは答えじゃない」
ゆいが言った。
「忘れられなかったから、テンを消せなかった」
テンの尻尾が、赤い糸の下で動く。
マドカは朱の万年筆を上げた。
「ならば、今度こそ正しく読みます」
部屋中の途中で終わった原稿が集まり、白と赤の巨大な人影を作った。顔は校了印、腕は削除線、胸には黒い空洞がある。
マドカ自身の未完成。
中心語が現れる。
未完成
マドカは、その上へ力いっぱい書いた。
完成
赤いルビは光らなかった。
期待へ《成功》と書いたルビと同じように濁り、音を立てて砕ける。
マドカの頬を赤い破片がかすめた。

「どうして」
「嘘のルビは光らない」
かなでが静かに言った。
「あなたは完成を信じてない。完成しなかったら、また誰かを待たせるのが怖いんだ」
「違う」
「自分が続きを待ってるって、認めるのが怖い」
しおりの言葉に、マドカの赤字が暴れた。
完成稿化された街のページが雪崩れ込み、四人を過去の誤読へ戻そうとする。
そのとき、閉じたページの向こうから声がした。
「もう一度、書いてみる」
水野あかりの声。
「声にならない願いも、歌にしていい」
三枝こよみ。
「好きな場面を、もう一度読みたい」
白井ひなた。
「まだ分かりません。だから、考えたいです」
久我れい。
遠くで、奏太の一音が鳴る。
「約束、まだ持ってていい?」
まなの手紙が開く。
完成稿に固定されていた人々が、自分の言葉をもう一度選んでいた。
かなでは次の音を急がず、その声が届く余韻を守った。
ゆいは消えなかった傷と手紙を抱え、赤い削除線を支える糸へ変えた。
すずは最短経路ではなく、すべての声が通ってきた旅路を星図へ結んだ。
しおりは、赤い表紙に縫われたテンへ手を伸ばす。
「テン。続きが来るって約束はできない」
「うん」
「なぎささんに会えるとも、物語が完成するとも言えない」
「それでいい」
「でも、終わりだと決めなくていい」
赤い糸が切れた。
テンがしおりの腕へ飛び込み、読点形の尻尾をルビペンへ重ねる。
ペン先に、これまでのルビが一つずつ灯った。
はじまり。祈り。証。旅人。願い。余白。問い。約束。余韻。旅路。
どれも、痛みをなかったことにはしなかった言葉。
しおりはマドカを見る。
「未完成は、欠けていることだけじゃない」
マドカの奥で、円花が顔を上げた。
「まだ書けること。まだ読めること。まだ会えるかもしれないこと。完成しなくても、終わらなくても、途中でも。続けられるなら――」
中心語の上へ、ルビペンを走らせる。
未完成 → つづき
「それは、物語だよ」
光はしおりのペンからだけではなく、部屋中の未完成なページから生まれた。

マドカの未完成は崩れなかった。
削除線がリボンへ、校了印が開いた花へ、胸の空洞が白い余白へほどけていく。
マドカの手から朱の万年筆が落ちた。
「続きを書いても、届かないかもしれない」
「うん」
「待っている人は、もういないかもしれない」
「うん」
しおりは否定しなかった。
円花は泣いた。
「それでも、書いていいのですか」
「円花さんが、書きたいなら」
未完成ノートの最後のページに、読点が戻った。
《そして、》
円花はその続きを、まだ書かなかった。
まず表紙に、自分の名前を書いた。
《円花》
巨大な本が開く。
御詠市へ朝の光が戻り、均されていた坂に小さなひびが戻る。古書店の本は不揃いに並び、時計はそれぞれの一秒を刻み始めた。
役割名に置き換えられていた人々の胸へ、本当の名前が戻っていく。
真波駅跡の駅名標にも、薄いながら二文字が残った。
数日後。
しおりは新学期の自己紹介カードを机へ置いた。
名前の下は、まだ全部埋まっていない。
好きなものの欄に、《まだ途中の物語》と書く。
将来やってみたいことの欄では、しばらくペンを止めた。
やがて、《自分の言葉で、続きを書く》と書いた。
窓辺でテンが尻尾を揺らす。
「ずいぶん書いたね」
「まだ空いてるところもあるよ」
「だから、いいんじゃない?」

教室の後ろにある文化発表会の写真には、いくつか薄い名前が残っていた。
事件がすべて終わったわけではない。
消えたままの名前も、届いていない手紙も、見つからないなぎさの記録もある。
しおりは新しいノートを開いた。
最初のページに書く。
しおりのノート
未完成 → つづき
未完成は、欠けていることだけじゃない。 まだ書けること。まだ読めること。まだ会えるかもしれないこと。 完成しなくても、終わらなくても、途中でも。 続けられるなら、それは物語だ。
最後に句点を書こうとして、しおりは少し考えた。
代わりに、小さな読点を置いた。
そして、次のページを開いた。