
ロディ。衛兵見習いの、迷子係の、ロディ。
栗売りのおばあさん。名前は、まだ預かってない。
七瀬、未知留。
祠の陰で膝を抱えたまま、未知留は今日も暗唱していた。老婆の真似だった。癖になるのに、二日もかからなかった。この国では、眠る代わりにやることが、それくらいしかない。
ロディ。おばあさん。七瀬未知留。それから——
ふと、続けてみたくなった。こっちの名前だけじゃなくて、向こうの名前も。
担任。がさつな声。「七瀬ー」って呼ぶ。名前は……思い出せる。大丈夫。学校。市立の、転校して二週間の。クラスの、隣の席の——
「白い、犬……?」って言った、あの子。
窓の外を一緒に見た。ちょっと困った顔で前に向き直った。声も、覚えてる。癖のある前髪も、シャーペンの齧り跡も、覚えてる。
名前が、出てこない。
「……え」
声が、勝手に漏れた。
顔は浮かぶのだ。はっきりと。机の位置も、上履きの色も。なのに、名前のあるべき場所だけが、するりと滑る。掴もうとすると、砂みたいに指の間から落ちる。
穴だった。記憶の中に、名前の形をした穴が、開いていた。

「うそ」
未知留は立ち上がった。膝から血の気が引いていた。
おばあさんの声が、耳の奥で蘇る。
——忘れるんじゃないよ。自分のは、いっとう最初に消えるからね。
「ねえ。起きて。……起きてってば」
祠の上で丸くなっていた白ウサギが、耳だけをぴんと立てた。
「起きている。観測者は眠らない。……何かあったかね」
「私、忘れてってるの?」
白ウサギの耳が、ゆっくりと下りた。
その沈黙の長さが、答えだった。
「クラスの子の名前が出てこない。顔は覚えてるのに、名前だけ。……ねえ、これ、この国のせい?」
「…………」
「答えて」
白ウサギは、観念したように祠から降りてきた。
「——この国は、ヒトから『向こう』を薄れさせる。長居すれば、するほどに」
「なにそれ。聞いてない」
「言わなかったからね」
開き直りではなかった。白ウサギの声は、むしろ細かった。
「言えば君は怯える。怯えれば、君の中のわずかな火が消える。それが、私は一番——いや」
白ウサギは首を振って、懐中時計を取り出した。
「……見せておこう。君には、知る権利がある」
蓋が、ぱちんと開いた。
数字のない文字盤。真夜中の少し手前で震える針。そして、記憶の中では一粒だけだった光の——
「……増えてる?」
粒は、三つになっていた。いや、四つ。小さいのを数えれば、もっと。文字盤の隅で、砂金みたいに、ちらちらと瞬いていた。
「なんで? 私、向こうを忘れてってるんだよね? なのに、なんで増えるの」
白ウサギは、答えなかった。
ただ、その横顔が、隠しきれていなかった。狼狽、というのだと思う。百年生きた観測者が、自分の計器を、信じられないものを見る目で見ていた。

「……分からない」
長い沈黙のあとで、白ウサギは言った。
「分からないことが、私は一番怖い。——だが」
「だが?」
「怖いものが、悪いものとは限らない。それだけは、百年で学んだよ」
「あーあ。泣かせた」
チェシャ猫の声が、祠の屋根のあたりで転がった。
「泣いてない」
「泣きそうではある」
「……うるさい」
姿の見えない猫は、くすくすと笑った。それから、声だけが、するりと未知留の耳元に降りてきた。
「忘れるのが怖い?」
「……怖いよ。悪い?」
「ぜんぜん。まっとうだよ、君は」
声は、いつもの軽さのまま、こう続けた。
「——でも君、忘れられるほうは、もっと怖いんだよ」
未知留は、顔を上げた。
「どういう——」
「さあ? 一般論、一般論」
声はもう屋根の上に戻っていた。三日月の笑みが、闇に薄く浮かんで、消えた。
未知留は、膝の上でこぶしを握った。掌に爪が食い込む。その痛みで、言葉が押し出された。
「……帰りたい」
初めて、口に出した。ダークランドに落ちてから、ずっと胸の中で建前として持ち歩いてきた言葉を、初めて、本当の意味で言った。
「帰りたい。忘れたくない。あの子の名前も、まだ思い出せてないのに」
白ウサギが、じっと未知留を見ていた。
長いこと見て、それから、ぽつりと言った。
「……前にも、こういう顔を見たことがある」
「……誰の」
「こちらの話」
それきり、白ウサギは黙った。いつもの「こちらの話」より、ずっと重い黙り方だった。
「帰り道は、あるの」
未知留が聞くと、白ウサギは耳の後ろを掻いた。言いにくいことがあるときの、新しく見つけた癖だった。
「……ある、と言われている」
「曖昧」
「曖昧なのだ、実際。私は連れてくる側で、送り帰す側ではなかったからね」
白ウサギは、遠くの丘へ目をやった。
「だが——帰り道の話を聞くなら、あの茶会の主が早い。この国で、時間について私より詳しいものは、あれ一人だ」
「……帽子屋?」
「昔は、時計職人の家系でね。帽子より先に、時計を弄っていた男だ。……私が言えるのは、そこまでだ」
未知留は、少しの間、黙っていた。
胸の中で、いろんなものが並んでいく。帰りたい。忘れたくない。あの子の名前。増えていく光の粒。それから——おばあさんの、伝言。
針は進めなくても、茶は冷める。
「……ちょうどいい」
未知留は立ち上がって、スカートの埃を払った。
「届け物が、あるんだった」
丘の上に立つと、遠くに、あの灯りが見えた。
蜂蜜色の、温かい、時間の優しい灯り。世界でそこだけが、ずっと6時のままの場所。
一度目は、迷い込んだ。
二度目は、届けに行く。
「……私は、門までだ」
隣で、白ウサギが言った。耳が、もう伏せられていた。会場に入れない者の、あの顔だった。
「知ってる」
未知留は、歩き出した。

ポケットの中で、こぶしを軽く握る。伝言は形のないものだけど、握っていないと、こぼれてしまう気がした。
——冷めない茶を飲んでいる人に、茶は冷めるって伝えるの、私なんだ。
それが何を意味するのか、未知留はまだ知らない。
(第7章 了)