
「……いまの、あんたがやったのかい」
声は、倒れた屋台の下から聞こえていた。
未知留は杖を胸の前に引き寄せた。武器になるとは思っていない。それでも、握るものがそれしかなかった。
「誰」
「そりゃこっちの台詞さ」
がさ、と屋台の残骸が揺れて、青と白の縞のひさしの陰から、小さな影が半分だけ出てきた。
最初、丸まった毛玉かと思った。違った。針だ。灰色の針をびっしり背負った、膝丈にも届かない小さな生き物——ハリネズミだった。前掛けをして、頭に手ぬぐいのようなものを巻いている。そして、人間の老婆のような目で、未知留をじろりと見上げていた。
「客人の杖だね、それは」
老婆——としか言いようがなかった——は、杖を顎で指した。
「昔、さんざん見たよ。祭りのたびに、外から来た子らが振り回してさ。……で。いまの灯り、あんたがやったのかい」
「……そうだけど」
「ふうん」
老婆は未知留を、上から下まで眺めた。
「あんた、その格好……学校の子かい」
「…………こういう服が、楽なだけ」
「ふうん」老婆はもう一度言った。どちらの「ふうん」も、信じていない音だった。
それから、くるりと背を向けて、屋台の残骸の下へ潜り込んだ。
「……何なの」
「来るのかい、来ないのかい」
陰の中から、声だけが返ってきた。
屋台の下は、思ったより広かった。
倒れた台と庇が屋根になって、小さな洞穴のようになっている。隅に藁の寝床。欠けたカップがふたつ。火の入っていない小さな七輪。そして——壁の代わりに立てかけられた、一枚の長い木板。
未知留は、それを見て息を止めた。
板一面に、文字が刻まれていた。小さな、粒みたいな彫り跡が、上から下までびっしりと。何十行も。何百も。
「名前だよ」
老婆は七輪の前にしゃがんで、栗を並べていた。火はない。代わりに、七輪の縁に小さなハートの彫りがあって、老婆がそこを撫でると、炭がじんわりと橙色に灯った。残響の使い方を、この人は知っている。
「この広場で商売してた連中。買いに来てた連中。あたしの屋台の前を通った、ぜんぶの名前さ」
「……なんで、こんなに」
「唱えるためだよ」
老婆は栗をひとつ、ころりと転がした。
「名前ってのはね、輪郭なのさ。呼ばれなくなった名前から、順に消えてく。……だからあたしは毎朝、端から順に唱えるのさ。今日も覚えてるよ、って。あんたたちは確かにいたよ、って」
「あたしはね、名前を数えて生きてきたのさ」
じん、と焼ける栗の匂いがした。この国に来て、初めての、ちゃんとした匂いだった。
「ほら」
気がつくと、目の前に焼き栗が差し出されていた。受け取ると、手のひらが熱かった。熱いということに、泣きそうになった。理由は自分でも分からなかった。
「……広場の、あの兵の人も」未知留は栗を握ったまま聞いた。「名前、あるの」
老婆の手が、一瞬だけ止まった。
「——ロディ」
名前を言うとき、老婆は少しだけ間を置いた。暗唱の、癖のような間だった。
「衛兵見習いの、ロディ。祭りの日は迷子係でね。ちびすけどもを灯りの下に集めて、親が見つけるまで、ずっと歌なんか歌ってやってさ」

「……迷子は、灯りの下に」
「おや」老婆の針が、ぴくりと立った。「誰に聞いたんだい、それ」
「本人」
老婆は、長いこと黙った。それから、栗をもうひとつ、未知留の手に押しつけた。
「……食べな。冷める前に」
「ねえ。あの杖で、みんなを元に戻せたりは——」
言い終わる前に、老婆は首を振った。
「戻すってのは、そういうもんじゃないよ」
「でも、ロディ……さんは、一瞬」
「一瞬、思い出しただけさ。あんたのおかげでね。それは大したことだよ。大したことだけど——」
老婆は、未知留の杖を、今度はまっすぐに指差した。
「あんたのそれは、点けるたびに、あんたの中の何かを使ってる。ただの火じゃないよ。広場をまるごと灯したろう。あのあと、腹の底が妙に軽くなかったかい」
未知留は、答えられなかった。
祠で座り込んだときの感覚を思い出していた。膝から力が抜けた、あの空っぽさ。怖さのせいだと思っていた。あれが、もし——
「怖がらせる気はないよ」老婆は栗の殻を剥きながら言った。「ただ、知らないで使うのと、知ってて使うのは、別もんだからね」
「……知ってて使ったら、何か変わるの」
「変わるさ」
老婆は、こともなげに言った。
「知ってて使うやつのことは、選んだって言うのさ」
帰り際——といっても、どこへ帰るのかは誰も言わなかった——老婆は屋台の陰まで送りに出てきた。
広場の灯りはもうほとんど消えて、ロディの兵は、元の位置に戻って立っていた。ただの兵の姿で。それでも未知留には、もう「ただの兵」には見えなかった。名前を知ってしまったからだ。
「そういえばさ」
老婆が、ふと思い出したように言った。
「あんた、これからどこへ行くんだい」
「……分かんない。帰り方を探してる」
「そうかい。なら、そのうち嫌でも通るだろうから、頼まれとくれ」
老婆は、遠くを見た。丘の向こう。お茶会のある方角を。
「昔ね、この国でいっとうの帽子屋がいたのさ。腕は国いちばん、口も国いちばん。あたしの手ぬぐいも、ありゃ元は、あの店の端切れでね」
「……帽子屋なら、会った」
「だろうね。あの店の灯りは、遠くからでも分かるから」
老婆の声は、そこで少しだけ静かになった。
「もし、また会ったら、伝えとくれ。——針は進めなくても、茶は冷める、ってね」
「……何それ。どういう意味」
「さあね。あんたが届ける頃には、分かってるかもしれないよ」
未知留は、聞き返そうとして、やめた。この国の住人は、誰も彼も、こういう言い方しかしない。
「じゃあ」と歩き出しかけて、未知留は一度だけ振り返った。
「あなたの名前は? ……覚えとく」
老婆の針が、ゆっくりと寝た。笑ったのだと、少ししてから分かった。
「……さあね。他のみんなのを覚えるのに、使っちまったよ」

それから老婆は、初めて未知留の目をまっすぐに見て、言った。
「あんたの名前は」
「……七瀬未知留」
「いい名だ」
老婆は頷いた。そして、こともなげな声のまま、こう続けた。
「忘れるんじゃないよ。自分のは、いっとう最初に消えるからね」
祠への帰り道、未知留は口の中で、小さく繰り返していた。
ロディ。衛兵見習いの、迷子係の、ロディ。
針は進めなくても、茶は冷める。
七瀬、未知留。七瀬、未知留。
「……何を唱えているのだね」
祠の上で待っていた白ウサギが、怪訝な顔で耳を傾けてきた。
「別に」
未知留は言った。それから、手の中に残っていた最後の焼き栗を、白ウサギに放った。
「食べな。冷める前に」

白ウサギは栗と未知留を三度見して、何か言いかけて、結局黙って栗を齧った。
薄暮の下、遠くの広場で、最後の灯りがひとつ、ゆっくりと消えた。
それでも名前は、覚えている限り、消えない。
——帰るまでの間だけ。
そう言い訳しながら、未知留は今日覚えたものを、もう一度だけ数え直した。
(第6章 了)