
あの店の灯りは、遠くからでも分かるから。
老婆はそう言った。本当だった。色のない丘をふたつ越える間、蜂蜜色の灯りはずっと、視界のどこかにあった。近づくほどに、オルゴールの音が輪郭を持っていく。楽しげな、お茶会の音楽。一度目に聞いたときと、同じ曲。
生垣の切れ目の三歩手前で、白ウサギの足が止まった。
未知留は二歩先まで行って、振り返った。白ウサギの耳は、もう伏せられていた。傘を小脇に抱え直す仕草だけが、いつもより丁寧だった。
「入らないなら、せめて理由、教えてよ」
「……古い話なのだ」
「古い話なら、時間はあるでしょ。この国、いくらでもあるんだって」
我ながら意地の悪い言い方だと思ったが、白ウサギは怒らなかった。ただ、伏せた耳の先が、少しだけ震えた。
「伝言を渡したら、長居はしないことだ。……いい茶会だよ、あそこは。昔から」
昔から。
その言い方に引っかかりを覚えたまま、未知留は生垣の切れ目をくぐった。
そこだけ、世界の明るさが違った。
長いテーブルに、白いクロス。積み上がったティーカップ。ポットは湯気を立て、焼き菓子の皿が並び、椅子の背もたれにはハート形の飾り彫り。蜂蜜色の灯り。何もかも、覚えているとおりだった。
覚えているとおり、ということが、この時はまだ、懐かしさに似た形をしていた。
テーブルの真ん中で、大きな帽子の男が立ち上がった。
「お客さんだ!」
帽子屋は両手を広げた。
「お客さんだお客さんだお客さんだ! 三月、起きろ! ネズミも起きろ! カップを温めて、椅子を引いて——ようこそお嬢さん! 席はどこでも、好きなところへ!」
テーブルの端で、三月ウサギが跳ね起きた。ティーポットの蓋がぱかっと開いて、眠りネズミが顔だけ出し、また引っ込んだ。

未知留は、切れ目のところで立ち止まったままだった。
——同じだ。
歓迎されたのが、ではない。台詞が、同じだった。三月、起きろ。ネズミも起きろ。カップを温めて、椅子を引いて。一語も、違わなかった。三月ウサギの跳ね方も、ポットの蓋の開き方も、ネズミが引っ込むまでの間も。
偶然かもしれない。決まり文句なのかもしれない。未知留は、試すことにした。
「……ここって、いま何時?」
「6時だよ」
帽子屋は即答した。どこの時計も、見なかった。
「6時って、朝の? 夕方の?」
「お茶の6時さ」
「じゃあ、いつまで6時?」
「いつでも6時だよ」帽子屋は、なんでもないことのように言った。「6時はね、一番いい時間なんだ」
同じだった。答えの中身だけじゃない。息継ぎの場所まで、同じだった。
「……日、暮れないの」
「暮れないねえ」帽子屋はのんびりと空を見上げた。「ここしばらく——どれくらいだろうね、三月?」
「知らない! ミルク取って!」
未知留の足の裏から、冷たいものが上がってきた。
テーブルの端。一度目に自分が浅く腰かけた椅子は、まっすぐに引かれて、いなかったことになっていた。自分が口をつけたカップは、洗われたのでもなく、片づけられたのでもなく——積み上がったカップの山の、元の位置に、戻っていた。焼き菓子の皿の並びも、崩した記憶のある角度のまま、崩れていない形に、戻っていた。
巻き戻っている。この会場は、丸ごと。
「……私、前にも来たよ。ここ」
言ってから、答えを聞くのが怖くなった。
帽子屋は、きょとんとした。それから、心の底から嬉しそうに笑った。
「? 今日が初めてだよ、お嬢さん! ようこそ!」
一度目と、同じ笑顔だった。
「お茶が先!」三月ウサギがカップを突き出してくる。「質問はミルクのあと!」
未知留は、座らなかった。
一度目は、押し切られて座った。二度目は、座るために来たんじゃない。
「届け物が、あるんだけど」
「届け物!」帽子屋の目が輝いた。「新しい帽子の注文かな! リボンかな!」
「伝言」
未知留はポケットの上から、こぶしを軽く握った。形のない預かり物は、握っていないと、こぼれてしまう気がした。
「栗売りの、おばあさんから。……ハリネズミの。頭に手ぬぐい巻いてる。あんたの店の、端切れだって言ってた」
帽子屋の動きが、ふ、と柔らかくなった。
「ああ——あの端切れ! 針山のお客さんだ! 緑の格子の、いいウールなんだよ、あれは」
初めて、噛み合った。未知留は少しだけ驚いた。百年前の端切れの柄を、この人は今日のことみたいに言う。
「元気かい? 最近、顔を見ないねえ」
最近。
その一語の底が抜けていることに、帽子屋だけが気づいていない。未知留は、喉の奥が狭くなるのを感じながら、まっすぐに帽子屋を見た。
「伝言、言うよ」
「うん!」
「——針は進めなくても、茶は冷める」
帽子屋は、ポットを持ち上げたところだった。
その手が、止まった。
注ぎ口から出かけた紅茶が、細い糸のまま、途切れた。
最初に気づいた異変は、音だった。オルゴールの旋律が、半音、ずれた。ずれたまま、同じ小節を、二度なぞった。それから、テーブルの上のすべての湯気が——ポットの、カップの、焼きたての菓子の——ふ、と細くなって、消えた。
蜂蜜色の灯りが、ひとつ、またひとつ、暗くなる。翳る、という方が近かった。世界でここだけ優しかった時間が、急に年を取ったみたいだった。
「ミルク——」
三月ウサギが、言いかけた形のまま、止まっていた。差し出した前脚も、開いた口も、そのまま。ポットの中の眠りネズミの寝息が、聞こえなくなった。

賑やかさが書き割りだったみたいに、会場は静かになった。
その薄暗がりの中で。
未知留の頭の奥で、何かが、光った。
画用紙。クレヨンの匂い。まだ小さい、自分の手。夢中で塗った、長いテーブル。ウサギと、帽子の男と、猫が、お茶を飲んでいる絵。ママ、みてみて。写真の中の自分は、その絵を掲げて、笑っていて——

——この並びを、知ってる。
大きな帽子の男が真ん中で、ウサギが端で、テーブルが長くて。同じだ。私が描いた絵と、この会場は、同じ並びだ。
見たことなんて、なかったはずなのに。
それから、遅れて、もうひとつ気づいた。
絵には、猫がいた。にっこり笑った猫を、私は確かに描いた。
——ここに、猫はいない。
「……いま、なんて言った?」
帽子屋の声で、我に返った。
静かな声だった。感嘆符のない帽子屋の声を、未知留は初めて聞いた。
「針は進めなくても、茶は冷める。……そう伝えてって、言われた」
帽子屋は、ポットを置いた。それから、コートの胸元に手を入れて、何かを取り出した。
懐中時計だった。古びた、飴色の蓋の。職人の道具みたいに、飾り気がなかった。
帽子屋は、蓋を開けて、文字盤を見た。
見た、ということが、たぶん、百年ぶりなのだと思う。見る必要のないものを、人は見ない。
針は、6時を指して、止まっていた。
「そう。そうだっ——」
言葉が、そこで途切れた。
だった、と言おうとして、言えなかったのだと、未知留にも分かった。帽子屋の口が、過去形の形のまま、開いて、閉じた。
「……そう、なんだ」
帽子屋は、言い直した。
「ここは、いつでも、6時なんだ」
同じ台詞のはずだった。なのに今度は、自慢にも、招待にも、聞こえなかった。
帽子屋は、ゆっくりとテーブルの奥へ歩いた。
誰も座っていないのに整えられた、あの席の前で、足が止まる。伏せられていないカップ。磨かれた皿。まっすぐに引かれた椅子。
帽子屋は、カップの縁に、指先で触れた。
「——冷めてる」
それだけ、言った。
ふ、と——蜂蜜色の灯りが、順に息を吹き返した。オルゴールが小節の頭からやり直して、正しい音程で回りはじめる。ポットの湯気が戻る。焼き菓子の匂いが戻る。
「——取って! ミルク!」
三月ウサギが、止まった続きから動き出した。眠りネズミの寝息が戻った。会場は、何事もなかったみたいに、賑やかさを取り戻していく。世界でここだけ、時間の優しい場所に。
その真ん中で、帽子屋だけが、止まったままだった。
予約席のカップに触れた指を、そのまま。まるで、自分だけが再開を忘れたみたいに。
「ねえ、お嬢さん」
帽子屋は、振り向かずに言った。
「——いま、本当は、何時だい?」
未知留は、答えられなかった。
スマホは映らない。時計は読めない。この国に来てから、いま何時かなんて、一度も分からなかった。それでも——6時じゃないことだけは、知っていた。
時刻を言えない男に、時刻を聞かれている。
その意味を、未知留はまだ、半分しか分かっていなかった。
(第8章 了)