
黒瀬ゆいが廊下を歩くと、会話が半歩だけ遠ざかった。
本人が何かしたわけではない。背が高く、黒い髪が長く、いつも一人でいる。それだけのことが、いつの間にか「怖い人」という名前になっていた。
「絶対、怒ってるよね」
「目、合っただけで睨まれた」
小声は小声であるほど、本人には聞こえないことになっている。
しおりには、ゆいが持っていた本の角を少し強く握ったのが見えた。
かなでが明るい声を出す。
「ゆいちゃん、おはよう! 今日も髪きれいだね。シャンプー何使ってる?」
周囲がさらに静かになった。
ゆいはかなでを見て、「普通の」とだけ答えた。
「普通の、いっぱいあるなあ」
「かなでちゃん」
しおりが袖を引くと、かなでは困ったように笑った。空気を軽くしようとしたのだ。けれど、軽くされた側の痛みまで消えるわけではない。

放課後、しおりは校門近くで風見りおに呼び止められた。
「春日さん、黒瀬さんと話したことある?」
りおは何度も鞄の持ち手を握り直していた。
「少しだけ。どうして?」
「渡したいものがあるんだけど……やっぱり、いい」
鞄の隙間から、赤いリボンが見えた。新しいものではない。端が擦れ、途中を何度も縫い直してある。
そのとき、坂の下から自転車が飛び出してきた。
りおは気づいていない。
しおりが声を上げるより先に、黒い影が二人の間へ入った。ゆいがりおの腕を引き、代わりに自分の手を石垣で擦った。
自転車は謝りながら坂を下っていく。
ゆいの手の甲に、細い赤い線ができていた。
「黒瀬さん、血が」
「これくらい、傷じゃない」
ゆいは手を隠した。

りおは何か言おうとした。しかし、通りかかった生徒たちの視線に気づくと口を閉じ、そのまま走り去ってしまった。
ゆいはその背中を見送った。
怒ってはいなかった。ただ、知っていたような顔だった。言えない人が、言えないまま逃げるときの顔を。
「追わなくていいの?」
「追われたくない時もある」
ゆいは旧線跡へ続く道を歩き出した。
しおりとかなでが少し離れてついていくと、錆びた柵の向こうに真波駅跡が見えた。ホームだけが草の中に残り、駅名標は《真――》から先が欠けている。
ゆいはポケットから別の赤いリボンを出した。りおの持っていたものとよく似ている。
「それ……」
「読まなくていい」
ゆいはリボンを握りしめた。
「もう終わったものだ。そう読んでおきたいだけ」
風が吹き、駅名標の白い部分から赤黒いインクが滴った。
翌日、りおの机には赤い文字が刻まれていた。
臆病者
雑巾で拭いても消えない。りおは袖で机を隠し、誰にも見られないようにしていた。
「それ、自分で書いたの?」
かなでの問いに、りおは首を振った。
「でも、間違ってない」
声が震える。
「前に、黒瀬さんに助けてもらったの。なのにみんなが黒瀬さんを怖いって言ったとき、私も笑った。違うって言えなかった。昨日だって、また助けてもらったのに」
鞄から古いリボンを出す。
「これ、あのとき黒瀬さんが結んでくれた。返して、謝りたかった。でも、今さら言ったら、自分が楽になりたいだけみたいで」
机の文字からインクが溢れた。
教室の壁が裂け、赤黒い縫い目が走る。紙片とリボンが人の形を作り、傷口のような隙間から声を漏らした。
「怖い」
「ごめん」
「言えなかった」
インクスカーが腕を振るう。裂けた紙の刃がりおへ伸びた。
ゆいがその前に立った。
刃は制服の袖を裂き、腕に赤い線を残す。
「黒瀬さん!」
「下がって」
しおりとかなでが変身する。ルビペンの光と音の波が紙片を押し返すが、切り離された傷は別の刃になって増えていく。
インクスカーは、りおだけから生まれたのではなかった。

ゆいの腕に、昔の傷が浮かんでいた。膝、手のひら、肩。誰かをかばった傷。転んだ傷。隠してきた傷。それらすべてに赤字が入り、《欠陥》《弱さ》《怖がられる理由》と書き換えられていく。
「消して」
怪物の声が、ゆい自身の声と重なった。
「見えなくして」
しおりはペンを上げたが、書けなかった。
傷をきれいなものに言い換えてはいけない。痛かったことを、必要だったことにしてはいけない。
「痛くなかった、とは書けない」
しおりはゆいを見る。
「でも、ゆいさんが傷ついたのは、誰かを守ったからでもある。りおさんが今も痛いのは、ゆいさんをどうでもいいと思っていないから」
りおは赤いリボンを握り、怪物へ一歩近づいた。
「ごめんなさい」
今度は逃げなかった。
「許してほしいからじゃない。怖い人じゃないって言えなかったことを、なかったことにしたくない。私、覚えていたい」
ゆいは自分の傷を見た。
「傷は消えない」
短い声だった。
「消えたら、楽になるかもしれない。でも、消えないから覚えていられることもある」
彼女の手の中で、古いリボンが光った。縫い目から黒と深紅のルビペンが現れる。
「傷跡に残る、消えない証。ルビナイト・スカー、ここに刻みます」
黒い光がゆいを包み、裂けた布の縁を赤いステッチが結んでいく。
空中に文字が浮かぶ。
傷
ゆいは迷わず、その上へ書いた。
証
「傷は、欠けた印だけじゃない。ここにいたこと。守ろうとしたこと。忘れなかったことの証にもなる」
インクスカーを縛っていたリボンがほどけ、今度は裂けた紙片をつなぐ縫い目になった。

怪物は崩れなかった。
ばらばらだった言葉を一枚の紙へ縫い合わせると、静かに光へ変わった。
結界が消えたあと、ゆいの腕には新しい傷が残っていた。
りおは消毒液と包帯を持ってきた。
「私がやってもいい?」
ゆいは少し黙ってから、腕を差し出した。
「きつく巻かないで」
「うん」
「あと、そのリボン」
りおの肩が固くなる。
「返さなくていい。持ってて」
許したとも、忘れたとも言わなかった。
けれど、りおは泣きながらうなずいた。
帰り道、かなでがゆいの隣を歩いた。
「ゆいちゃんって呼んでもいい?」
「もう呼んでた」
「じゃあ公認ってことで」
ゆいは答えなかった。ただ、歩く速さを少しだけ緩めた。
その夜、しおりはノートに書いた。
しおりのノート
傷 → 証
傷は、消えたら楽になるのかもしれない。 でも、消えないから覚えていられるものもある。 ゆいちゃんは、怖い人じゃなかった。怖がられることに、慣れようとしている人だった。
窓の外で、旧線跡の方角だけ街灯が一つ消えた。
翌朝、真波駅跡の駅名標からは、もう一文字が薄くなっていた。