第1話段ボールの向こう
引っ越しまであと7日という日に、猫が入ってきた。
灰色の、痩せてもいないし太ってもいない猫だった。開けっぱなしのベランダから、当然のような顔で入ってきて、積んだ段ボールのあいだに座った。
「うち、もう出るんだけど」
猫は返事をしなかった。かわりに、口にくわえていたものを床に置いた。
——古いボタン。臙脂色の、コートについていそうな大きさのやつ。
凪はそれをつまみ上げた。自分のものではなかった。この部屋に4年住んで、こんな色のコートは一度も持っていない。
「どこで拾ったの、これ」
猫はしばらく凪を見て、それからベランダへ戻っていった。手すりの上を、平均台みたいに歩いて消えた。
翌日も来た。今度は、鍵をくわえていた。
小さな、机の引き出しの鍵みたいなもの。錆びていた。凪の部屋に、鍵のかかる引き出しはない。
「泥棒じゃん、それ」
猫は段ボールのあいだに座って、目を細めた。
その日、凪は荷造りをほとんど進められなかった。ボタンと鍵を、キッチンの空いた缶に入れた。捨てるのも違う気がしたからだ。
—