
返却された作文には、本文よりも赤い文字の方が多かった。
《根拠不足》《表現が曖昧》《結論を明確に》
教師の字ではない。朱の線は原稿用紙の罫線より鋭く、しおりが書いた《かもしれない》を一本ずつ消していた。
最後には、見覚えのない一文が加えられている。
《自分らしさとは、正しい答えを選び、完成させることである。》
「私、こんなこと書いてない」
かなでが紙を覗き込み、眉を寄せた。
「先生の赤ペンじゃないよね。字が……怒ってないのに怖い」
「図書室で見つけた地名帳と同じ筆跡です」
すずは透明な袋へ作文を収めた。
ゆいは教室を見回す。
赤字は、しおりの紙だけではなかった。
進路希望票の《まだ分からない》には《記入不備》。美術部の募集ポスターにある《自由》には《基準不明》。黒板の隅に誰かが書いた《好き》には《客観性なし》。
言葉が訂正されるたび、書いた人の表情から何かが薄くなっていった。

窓際で、久我れいが進路希望票を見つめていた。
学年一位。生徒会役員。教師に尋ねられれば、誰もが納得する答えを返す少女だった。
その用紙の第一希望欄だけが空いている。
「久我さんは何を書いたの?」
しおりが尋ねると、れいは困らせないための笑顔を作った。
「まだ。でも、両親も先生も、私なら間違えないって」
「何をしたいかは?」
「正しいものを選べば、したいことになると思う」
赤いインクが、空欄へ一文字ずつ浮かんだ。
《正解を書きなさい》
教室の扉が開く。
白い手袋をした女性が立っていた。白と黒の端正な服。胸元には朱色の万年筆。足音まで定規で測ったように静かだった。
「未確定の欄は、不安を生みます」
女性は、しおりの作文を見た。
「春日しおりさん。あなたの文章は余白が多すぎる」
「あなたが、赤字を?」
「編集長マドカ。読みにくい世界を、正しい完成稿へ整える者です」
テンが机の陰で低く唸る。

マドカは朱の万年筆を抜いた。
「夢は根拠不足。好きは客観性なし。迷いは不要。人は曖昧な言葉のせいで、待ち、期待し、傷つきます。初めから正解だけを残せば、その痛みは起こらない」
「でも、それはその人の言葉じゃない」
しおりの声は震えた。
「正解を選べないまま苦しむより、親切でしょう」
マドカが、れいの空欄へペンを置く。
赤い丸が幾重にも広がった。
答案用紙、進路票、採点欄が教室を覆い、巨大な人型へ組み上がる。頭部は正解を示す赤い丸、両腕は鋭い採点ペン。胸には一つだけ、空白の解答欄があった。
アンサー・レッド。
「私は、何になればいいの?」
れいの問いに、怪物が選択肢を並べる。
《期待される人》《間違えない人》《正しい道を進む人》
どれを選んでも、解答欄には《久我れい》ではなく役割だけが残った。
四人は変身した。
かなでの音は《雑音》と消され、ゆいの防御は《過剰》と削られる。すずが描いた迂回路には《最短ではない》と赤線が引かれた。
しおりが《正解》へペンを伸ばすと、マドカの赤字が先回りして手首を縛った。

「あなたたちのルビは危険です。失敗をはじまりと読めば、失敗を繰り返す。迷子を旅人と読めば、目的地へ着けない。未完成を許せば、誰かが永遠に続きを待つことになる」
最後の言葉の前だけ、マドカの声が途切れた。
未完成。
それは思想ではなく、古い傷を押さえるときの声だった。
れいが、胸の空欄を両手で覆った。
「正しい道を教えてください」
マドカは迷わず答える。
「能力を生かせる進路を選び、期待に応えなさい。そうすれば傷つきません」
「それで、私は何をしたいの?」
マドカのペンが止まった。
その問いに、用意された選択肢はなかった。
しおりは赤い拘束をほどこうとせず、れいを見た。
「分からないままじゃ、だめ?」
「怖い」
れいは初めて、正しくない顔で泣いた。
「何も決められない自分になるのが怖い。でも、誰かに決めてもらった答えを、自分の夢だって書く方がもっと怖い」
すずが赤線の入った地図を開く。
「分からない場所には、現在地から記録します」
かなでは答えを急かさず、れいの呼吸を待った。
ゆいは赤い線を握り、「選ばなくても、ここにいる」と言った。
しおりの拘束が緩んだ。
空中に中心語が現れる。
正解
「正解がないことは、怖い。でも、分からないことは空白じゃない」
しおりは、れいがうなずくのを待って書いた。
問い
「問いは、自分の言葉で考え始める場所になる」
れいは進路希望票の空欄へ書いた。
《まだ分かりません。だから、考えたいです。》
アンサー・レッドの赤い丸がほどけ、いくつもの小さな疑問符ではなく、白い解答欄へ戻っていく。欄は埋まらないまま、れいの手元へ残った。

マドカは消えかけた赤字を見つめた。
「問いは、答えを遅らせるだけです」
「遅れても、自分で書きたい人がいる」
しおりが答えると、マドカはほんの少し目を伏せた。
「その待ち時間に、失うものを知らないから言えるのです」
朱の線が空間を切り、彼女の姿を閉じた。
教室へ戻ると、赤字は消えていた。だが、文化発表会の古い写真では、薄かった名前が完全な空欄になっていた。
しおりは夜、ノートを開いた。
しおりのノート
正解 → 問い
正解がないことは怖い。 でも、誰かに正解を決めてもらうと、自分の言葉が消えてしまう。 分からないことは、空白じゃない。問い。 マドカは「未完成」という言葉を言うとき、少しだけ痛そうだった。
最後の一行の横へ、見知らぬ読点が一つ、淡く光って現れた。