
国語の作文課題は、「自分らしさ」だった。
原稿用紙を配られた瞬間、しおりは新学期の自己紹介カードを思い出した。
あれからノートには、たくさんの言葉が増えた。
失敗。沈黙。傷。迷子。期待。
その一つ一つに、別の読み方があると知った。
けれど、《春日しおり》の横には何を書けばいいのか分からない。
放課後になっても、原稿用紙は白いままだった。
「聞くのが上手」とかなでは言った。
「見ている」とゆいは言った。
「記録の仕方に特徴があります」とすずは言った。
どれも嬉しかった。けれど、誰かが見つけた言葉を写しただけでは、自分の文章にならない気がした。
「私には、みんなの言葉しかない」

図書室で呟くと、書架の文字が一斉に消えた。
本の背表紙から題名が抜け落ち、貸出票から名前が消える。すずが開いていた御詠市地名帳では、一つの地名が朱の削除線で塗りつぶされていた。
「自然な退色ではありません」
すずがページを光へかざす。
「名前を消したあと、紙そのものを『最初からなかった』形へ直しています」

白さが床へ広がった。
罫線も、影も、四人の足音さえ吸い込み、図書室を終わりのない白紙へ変える。
その中央に、しおりと同じ姿の少女が立っていた。
顔がない。
胸元にも名前がない。
ブランク・シオリは、白い手を差し出した。
「あなたの言葉は、どこ?」
問いかけるたび、しおりのノートから文字が消える。
あかりの言葉。こよみの祈り。りおの謝罪。すずの地図。
「やめて。それは私の――」
言いかけて、しおりは止まった。
私のもの、と言ってよいのだろうか。
迷いを見透かした影が、さらにページを白くする。
「借りた言葉」
「写しただけ」
「あなたには何もない」
しおりの変身が解けた。ルビペンまで輪郭を失い、白い床へ沈む。
かなでが歌おうとする。しかし歌詞を消され、最初の音だけが残った。
ゆいは自分の手首を切る白い線をつかみ、しおりまで届かせない。
すずは地図の代わりに、三人が立っている位置を床へ点で記した。

「しおりちゃん」
かなでは、残った一音のあとに言葉を置いた。
「私、黙るのが怖かった。しおりちゃんが待ってくれなかったら、こよみ先輩の声をまた隠してた」
ゆいが白い線を握ったまま言う。
「私の傷に名前をつけたのは、しおり。でも、何を書くか決めたのは私」
すずは三つの点を線で結んだ。
「これは写しではありません。しおりさんが私たちの間に見つけた道です」
テンが、白紙へ沈みかけたノートを前足で押し戻した。
「余白は、文字の外にあるから余白なんじゃないよ。書いた人が、まだ閉じないと決めた場所なんだ」
しおりはノートを開いた。
消えた文字の跡は残っている。強く書いた部分は紙がへこみ、涙が落ちた場所はわずかに波打っていた。
完全な白紙ではない。
誰かの言葉を書き留めたとき、自分は何もしていなかったわけではない。何を残すか迷い、言葉を選び、あとから読み返した。
空白だと思っていた場所にも、小さな鉛筆の跡があった。
《まだ、書ける》
あかりを救った夜、自分で書いた言葉だった。
しおりは白い床からルビペンを拾う。
「私には、まだ自分らしさが分からない」
ブランク・シオリの顔のない頭が傾く。
「でも、分からないことと、何もないことは同じじゃない」
ペン先が淡いピンクに灯った。
空白
「空白は、まだ決まっていない場所」
その上へ、一文字ずつ書く。
余白
「余白は、あとから言葉を書き足せる場所。私を何もないって決めたのは、私だった。まだ、決めなくていい。まだ、書ける」
ブランク・シオリに顔が戻った。
泣いているしおり自身の顔だった。

影は微笑まず、消えもしなかった。しおりの足元へ重なり、光の輪郭になった。
白紙の世界には罫線が戻った。すべてを埋めるための線ではなく、言葉を置ける場所を示す薄い線だった。
図書室へ戻ると、消えた本の題名も元に戻っていた。
ただ、地名帳の一か所だけは白い。
削除線の端に、鋭い朱色の筆跡が残っていた。
《意味未確定。校了不可》
テンはその文字を見て、毛を逆立てた。
「知ってる字?」
しおりが聞く。
「赤字だよ」
「誰の?」
テンは答えるまでに、長い読点を置いた。
「世界を、完成させたがっている人の」
翌日、しおりは作文を提出した。
題名は《私の余白》。一枚目の半分までしか書けていない。
最後の行には、こうあった。
《自分らしさは、今ここで言い切る答えではなく、これから書き足していく余白なのかもしれない。》
その夜のノートには、短く記した。
しおりのノート
空白 → 余白
空白は、まだ決まっていない場所。 余白は、何かを書き足せる場所。 私の中に何もないと思っていたけれど、まだ、書ける。
遠く離れた部屋で、白い手袋をした人物が作文の写しを開いた。
朱の万年筆が、《かもしれない》へ線を引く。
「曖昧ですね」
静かな声が言った。
「正しく、直さなければ」