
新学期の教室には、まだ誰のものにもなっていない匂いがした。
新しいノートの紙の匂い。削りたての鉛筆の匂い。ワックスを塗り直した床の、少し甘い匂い。窓から入ってくる風は春の端っこを含んでいて、カーテンをゆっくり膨らませている。
春日しおりは、その風に揺れるカーテンの影を見ながら、机の上に置かれた一枚のカードを見つめていた。
自己紹介カード。
名前。
好きなもの。
得意なこと。
将来やってみたいこと。
どれも簡単な項目のはずだった。少なくとも、教室のあちこちから聞こえてくる声は、そう言っているようだった。
「好きなもの、三つまでって少なくない?」
「得意なことって部活でいいかな。まだ入ってないけど」
「将来って、今決めなきゃだめ?」
笑い声。ペン先の走る音。机を少し引く音。
しおりのカードには、名前だけが書かれている。
春日しおり
その下は、白い。
好きなもの。
得意なこと。
将来やってみたいこと。
書けないわけではない。たぶん、好きな本もある。得意ではないけれど、嫌いではないこともある。将来だって、何かを思い浮かべようと思えば、ぼんやりした形くらいは作れるのかもしれない。
でも、書こうとすると手が止まる。
「好き」と言っていいほど、好きなのか。
「得意」と言っていいほど、できるのか。
「やってみたい」と書いてしまったら、ちゃんとそこへ向かわなければいけないのではないか。
言葉にした瞬間、自分がその言葉に追いつけなくなる気がした。
しおりは小さく息を吐いた。
「……空白ばっかり」
その声は、自分の机の上だけで消えた。
隣の席から、紙をめくる音がした。
水野あかりが、小さな原稿用紙を両手で持って、口の中で何かを練習している。
「えっと……『私が紹介したい本は』……ここで一回、顔を上げる」
しおりは思わず横目で見た。
あかりはしおりの視線に気づくと、少し照れたように笑った。
「ごめん、うるさかった?」
「ううん。発表の練習?」
「うん。今日の国語で、おすすめの本を紹介するんだ」
あかりの原稿には、きれいな字が並んでいた。ところどころに赤や青の小さな印がついている。ここで間を置く。ここで顔を上げる。ここは少しゆっくり。
しおりには、それがまぶしかった。
「すごいね。人前で話すの、平気なんだ」
「平気っていうか……好きなんだと思う」
あかりは原稿の端を指で撫でる。
「誰かが自分の好きな本を読んでくれたら、うれしいから」
好きな本。
しおりの自己紹介カードの空白が、急に白く見えた。
「春日さんは? 好きな本ある?」
しおりは答えようとして、止まった。
「……たぶん、あると思う」
「たぶん?」
「好きって言えるほど、ちゃんと分かってないかも」
変な答えだと思った。けれど、あかりは笑わなかった。
「そっか。でも、分からないなら、これから見つければいいんじゃない?」
何気ない言葉だった。
けれど、しおりは少しだけ顔を上げた。
これから見つければいい。
そんなふうに言える人は、自分の空白を怖がっていないのかもしれない。

そのとき、教室の後ろに貼られた古い写真が目に入った。数年前の文化発表会の集合写真らしい。写真の下には参加者の名前が並んでいる。
だが、いくつかの名前だけが、妙に薄い。
「水野さん、この名前……読める?」
あかりも振り返る。
「あ、本当だ。薄くなってるね」
「古いからかな」
「でも、隣の写真はきれいだよ。名前だけ消えるって変だね」
あかりは首を傾げたが、すぐに原稿へ戻った。
「まあ、先生に聞けば分かるか。今は発表、発表」
その時は、しおりも深く考えなかった。
国語の時間。
あかりは教室の前に立った。原稿を持つ手は少し震えていたけれど、声は明るかった。
「私が紹介したい本は――」
最初の一文は、まっすぐ教室に届いた。
しおりは、少しうらやましいと思った。
自分の好きなものを、自分の声で誰かに届けられる。そんなことができる人が、本当にいるのだと思った。
けれど、窓の外で強い風が吹いた。
カーテンが大きく膨らみ、あかりの原稿がめくれる。ページがずれる。
「あ、えっと……」
声が止まった。
教室が静かになる。
その静けさの中で、椅子がきしんだ。
たぶん、それだけだった。
けれど、あかりの肩がびくりと揺れた。笑われたと思ったのだと、しおりには分かった。
「ごめんなさい……」
先生が優しく声をかける。
「大丈夫だよ、水野さん。落ち着いて」
でも、あかりの目にはもう、教室も先生も映っていないようだった。
しおりは見た。
黒板の端に、黒い染みのような文字が浮かぶのを。
失敗
文字は、まるで濡れたインクのように広がって、あかりの原稿用紙へ染み込んでいった。

放課後、あかりは原稿を破り、教室を飛び出した。
誰も追えなかった。しおりも、すぐには動けなかった。
ただ、床に落ちた原稿の切れ端を拾った。
そこには、まだ読める一文が残っていた。
この本を読んだとき、私はもう一度話してみたいと思いました。
「もう一度、話してみたい……」
声に出すと、切れ端の文字がかすかに光ったように見えた。
「いい言葉だね。まだ消えてない」
机の上に黒猫が座っていた。
「猫……?」
「猫に見えるなら猫でいいよ」
黒猫は金色の目でしおりを見つめる。首には深い紫のリボン。尻尾の先は、くるんと丸まっていて、読点の形に似ていた。
「尻尾の先……読点みたい」
黒猫は満足そうに目を細める。
「よく見てるね。そういう子、嫌いじゃないよ」
「読点なの?」
「さあ。句点じゃないことだけは確かかな」
「句点?」
「終わりの印じゃない、ってこと」
しおりは混乱した。
「あなた、何?」
「テン。案内役みたいなもの。正確には、まだ読まない方がいいけど」
テンは机の上を歩き、しおりの前に一本の万年筆を置いた。黒く艶のある軸。金色のペン先。中心には、小さな赤い石が埋まっている。
「これは?」
「ルビペン」

「ルビ……?」
「言葉には、もう一つの読み方がある。君には、それを見つける力があるかもしれない」
テンは、あかりが消えた廊下の方を見る。
「読める? あの子の“失敗”の奥に残ってる言葉」
「私が?」
「君が読まないなら、あの子は自分を“失敗した人”として読み続ける」
その瞬間、教室の空気がひっくり返った。
窓の外が黒くなる。床の模様が原稿用紙の罫線に変わる。黒板には赤い×印が増え、机の上の紙が黒いページへ変わっていく。
あかりは教室の中央に立っていた。
周りには、赤点の答案用紙、破れた原稿、黒板消しの粉、巨大な赤い×印でできた獣がいる。
レッドフェイル。
その獣は歩くたびに、床へ「失敗」の文字を押しつけた。吠え声は大きくない。むしろ、発表で詰まった声のように小さく、苦しそうだった。
「失敗」
「失敗」
「失敗」
あかりは耳を塞いでいる。
「もう、人前で話さない。私が話すと、みんな困る」
しおりの胸が痛んだ。
「違うよ。水野さんは、本を紹介したかったんでしょ」
「したかった。でも、失敗した」
「失敗したら、好きだったことまで消さなきゃいけないの?」
あかりは答えない。
しおりは、自分の自己紹介カードを思い出した。好きなものも得意なことも書けなかった、自分の空白。
でも、あかりは違った。あかりには、好きな本があった。伝えたい言葉があった。
「私、好きなものを書けなかった。好きって言えるほど、自分のことが分からなかった」
あかりが顔を上げる。
「春日さん……?」
「でも、水野さんは好きなものを持ってた。話したい本があった。失敗しても、それまで消えたわけじゃない」
レッドフェイルが吠える。
「終わり」
「失敗は終わり」
しおりはルビペンを握った。
ペン先から淡い光がこぼれる。足元に白いページが開く。余白から花びらのような紙片が舞い上がった。
罫線が、しおりの足元から衣装の縁を描いていく。インクがリボンになり、淡いピンクの光が肩と胸元を包む。
最後に、胸元で小さな読点のような光が一瞬だけ瞬いた。
しおりは、なぜかその言葉を知っていた。
「余白に灯る、小さな祈り。ルビナイト・マージン、ここに綴ります」
空中に、文字が浮かぶ。
失敗
しおりはペンを上げた。
失敗したことは消えない。あかりが言葉に詰まったことも、教室が静かになったことも、全部なかったことにはできない。
でも、それで全部終わりだと決めなくてもいい。
ペン先が動く。
はじまり
「失敗は、あなたを終わらせる名前じゃない。もう一度始める場所にもなる」

黒いページがほどけた。
赤い×印は砕け、破れた原稿用紙の端だけが残る。完全に元通りではない。けれど、その端にはまだ書ける余白があった。
あかりは、それを両手で抱きしめる。
「もう一回……書いてみる」
夜。
しおりは自分のノートを開いた。今日のことを書き留めなければいけない気がした。
しおりのノート
失敗 → はじまり
水野さんは、失敗しても好きな本をなくさなかった。
私にはまだ、好きなものを書けない。
でも、空白のままでも、何かを見つけることはできるのかもしれない。
窓辺でテンが尻尾を揺らす。
「いい余白だね」
しおりはノートを見つめた。
「まだ、何も書けてないところばっかりだよ」
「だから、余白なんだよ」
しおりは少しだけ笑った。
空白は、何もない場所ではないのかもしれない。
まだ、何かを書ける場所なのかもしれない。