
「君の器の話、だったね」
祠の夜。猫の声が口火を切って、白ウサギが懐中時計を開いた。
「最初に会った夜のことを、覚えているかね」
「……覚えてる。あんた、失礼だった。『ほら、この通り、ほとんど空っぽだ』って」
「言ったとも。そして君はあの夜、たしかに空っぽだった」
文字盤が、燭台みたいに掲げられた。
深い紺の盤面に、光の粒。かつて一粒だった。四粒になった。いまは——数えるのを、とっくにやめた。星空をそのまま蓋の中に閉じ込めたみたいに、粒は瞬いていた。
「器、というのはね。信じる力の容れ物のことだ」
白ウサギは、静かに言った。
「ヒトは皆、それを持って生まれる。たいていは、育つうちに中身が入る。家族とか、友達とか、将来とか——信じるものが器を満たして、器は満たされたぶんだけ、鳴らなくなる。満杯の器は、叩いても、いい音がしないからね」
「……私のは、空だった」
「空だった。からん、からん、だった」猫の声が、屋根の上で言った。「だから、響いたんだよ。城のてっぺんの、あの札とね」
「君が私を正面から見られた理由も、それだ」白ウサギが継いだ。「空の器と、空の器。信じることをやめた者と、信じる心だけの存在。……周波数が、同じだった」
「で、いまの君の器には」猫が言った。「この国のものが、たっぷり入ってる」
粒。ロディの名前。おばあさんの栗の熱さ。絵の具屋の約束。門番の帽子。帽子屋の「あと一時間」。撫でた猫の体温。
「それが、この光?」
「そうだ。名前と、約束と、情——君がこちらで信じたものたちだ」
いい話のはずだった。いい話の顔をして、その話は、静かに牙を見せた。
「では、聞こう」
白ウサギの声が、一段、低くなった。
「増えた分は——どこに、入っている?」
「……器に、でしょ」
「器は、いくつある?」
未知留は、答えようとして、止まった。
サビの消えた歌。二呼吸かかったメモ。出てこなかった、前の学校の親友の名前。
「……ひとつ、しか、ない」
「そうだ」
白ウサギは、時計を閉じた。ぱちん、という音が、いつもより大きく聞こえた。
「器はひとつだ。こちらのもので満ちていくほど——向こうのものが、押し出される。君の忘却はね、未知留くん。長居のせいだけでは、なかったのだよ。……満ちていく、せいだ」
夜の森が、遠くで鳴った。
「あの子はね」白ウサギは続けた。続けるのが辛そうだった。「向こうに帰って、こちらを夢にした。器の中身を、向こうのもので上書きして生きた。……君は、その逆をやろうとしている。こちらのもので満ちて、向こうを——」
「やめてよ」
言葉が、勝手に出た。玉座の間で「やめてよ」と叫んだあの日以来の、勝手に出る声だった。
「……ごめん。続けて」
「いや」白ウサギは首を振った。「今夜は、ここまでにしよう」

昼休みの教室は、うるさくて、あたたかかった。
「七瀬さんてさ」
ひなたが、卵焼きを箸でつまんだまま、ふいに言った。
「最近、楽しそうだね」
「……そう?」
「うん。転校してきた頃、幽霊みたいだったもん」
「幽霊」
「あ、悪口じゃないよ? 薄ーい感じっていうか、教室にいるのに廊下にいるみたいっていうか——あー、これ悪口だ。ごめん」
ひなたは自分で言って自分で笑った。未知留は、笑いながら、胸の奥で何かを握りしめていた。
楽しそうだね。
そうだよ。楽しいんだ。こっちも、あっちも。両方の世界に、失いたくないものが増えていく。それが、そのまま、天秤の重りになっていく。
その夜、未知留はノートに二つのリストを作った。
きえたもの:サビ。まえの学校の( )。メモの二呼吸。
うしないたくないもの:
二つ目のリストを書き始めて、手が止まった。ロディ。おばあさん。ひなた。お母さんの「おかえり」。絵の具屋さんの約束。白ウサギ。猫。帽子屋の6時。門番のおじいさんの帽子姿。
——混ざってる。
こっちの世界と、あっちの世界が、もうひとつのリストの中で混ざっていて、どちらかに線を引くことが、できなかった。
その夜から、暗唱は二本立てになった。老婆に教わった、向こうの名前の暗唱。それから、こっちの名前の暗唱。サビの消えた曲は、歌詞だけでも、毎晩なぞった。

「もう、通うのをやめたまえ」
数日後の祠で、白ウサギは、前置きなしにそう言った。
耳は伏せていなかった。まっすぐ立てて、まっすぐ未知留を見て、百年ぶんの覚悟を煮詰めた声で、言った。
「器の仕組みは分かったはずだ。通うほど、君は満ちる。満ちるほど、君の現実が消える。……私はもう、見たくないのだ。帰りたいと泣く顔も、忘れていく顔も。二度と、誰のでも」
「…………」
「鍵の話も、賭けの話も、忘れたまえ。この国は、私たちが始めたことだ。君が背負う理由は——」
「あるよ」
未知留は、遮った。
「撫でたから。栗、もらったから。名前、預かったから。……もう、当事者なんだよ、私」
「未知留くん」
「ねえ、白ウサギ。おばあさんが言ってた。知らないで使うのと、知ってて使うのは、別もんだって」
未知留は、白ウサギの目を見た。
「私はもう、ぜんぶ知ってる。器のことも、天秤のことも、指一本の残り時間も。知ってて、通うの。——これは、選んだって言うんだよ」
白ウサギは、長いこと、動かなかった。
ゴーグルの奥の赤い目が、何かを数えて、数え終わって、諦めて——いや。諦めたのでは、なかった。決めたのだった。
「……ならば、私は」
白ウサギは、傘を置いた。両手を、空けた。
「百年前に、できなかったことをしよう」
「……何」
「あの日の私は、言葉で楽にして、手を放した。今度は、放さない。君が満ちていくのなら——私は、君の隣で、最後まで観測する。観測されたものは、消えない。私はそれを、この国の誰よりも知っている」
未知留は、少しだけ、下を向いた。目の奥が熱くなるのを、見られたくなかったからだ。
「……満ちたら、どうなるの。私」
「分からない」
白ウサギは、正直だった。百年ぶんの正直だった。
「分からないことが、私は一番怖い。……だが」
「だが?」
「——怖いものが、悪いものとは限らない」
いつか彼が未知留にくれて、未知留が女王に返した言葉が、巡って、彼自身のところへ帰ってきた。

その夜。
机の上の杖が、明滅していた。
赤いハートのヘッドが、とく、とく、と——未知留の胸の鼓動と、同じ拍で。灯るのではない。燃えるのでもない。ただ、脈を打つように、微かに、明滅する。
現実の部屋で。現実の机の上で。
「……響いてるんだ。もう、こっちでも」
器が満ちて、私はたぶん、少しずつ、何かになりかけている。それが何かは、まだ誰も知らない。
未知留は、杖の隣の写真立てを見た。
幼い自分。画用紙のお茶会。ウサギと、帽子の男と——にっこり笑った、猫。
私の記憶じゃない絵。誰かの記憶が、届いて描かせた絵。
「……あんたは、誰なの」
写真の中で、クレヨンの猫が——笑った気がした。
(第21章 了)