
「あの晩、僕がどこにいたか——って話だったね」
祠の夜。声は、いつものように頭の上から降ってきた。ただし今日は、屋根の一点からではなかった。右からも、左からも、森の奥からも、少しずつ重なって聞こえた。
「答えはね。ぜんぶの場所に、いたんだよ」
「……散ってたから」
「そう。あの頃にはもう、僕は僕をやめてた。だから見てたんだ。門の閉まる音も、廊下で祈ってた侍女の子も、三日三晩の内側も——ぜんぶ」
未知留は、膝を抱え直した。侍女の証言は外側までだった。扉の内側を知る者は、この国にひとりしかいない。ひとり、と数えていいのかも分からない存在だけど。
「名前はね、ぜんぶ滑り落ちた」
猫の声は、静かだった。
「陛下は最初の晩、百と八つの名前を試した。古い名前、花の名前、星の名前。……あの少女は、そのたびに嬉しそうにして、そのたびに、留まらなかった。誰かの一部に、名前は載らないんだ。載せようとすると、輪郭ごと崩れていく」
「……子守唄は」
「二晩目から。名前が駄目なら、せめて眠りを、って。……下手だったよ、陛下の歌は」
声が、少しだけ笑った。笑って、すぐ、静かに戻った。
「三晩目の夜更けに、少女の輪郭が、指先から解け始めた。煙みたいに。あれはもう、保たなかった。……だから、手が、出たんだ。君が城で聞いた、あの癖の、いちばん最初がそれ」
手が、出た。
百年、消えるものを仕舞い続けた癖の、最初の一回。
「札を壁に納めたあと、陛下はしばらく、動かなかった。それから、誰もいない玉座の間で——僕がいたけど、僕は「誰も」に入るから——ひとりごとを言ったんだ」
「……なんて」
「『この国に必要なのは、好かれる王ではない。百年憎まれても保つ、火の番人だ』」
未知留の中で、11章の声が重なった。恐怖はね、安い火だ。好かれる必要も、ない。
百年後のあの平坦な声は、この夜の宣言が、百年かけて擦り切れた形だったのだ。
「陛下はあの晩、王様であることをやめてね。——番人に、なったんだよ」
百年前。玉座の間には、まだ半分、色が残っていた。
壁の札は、まだ一枚きりだった。いちばん高い場所で、小さく、頼りなく明滅する一枚きり。
女王は玉座に座らず、壁の前に立っていた。その足元の床に、三日月の形をした光が、細長く伸びていた。
「猫」
女王は、振り向かずに言った。
「お前は、私を軽蔑するかい」
「まさか」
床の三日月が、ゆっくり傾いた。
「僕は、賭けるのが好きなだけ」
「……兎は、行ったよ」
「知ってる。外で鍵を探すって、君と約束したんだろ。律儀だねえ、あの時計屋は」
「お前は、約束しないのかい」
「僕は約束はしないんだ」笑みが、闇の中で薄く広がった。「——予言なら、するけど」
女王が、初めて振り向いた気配がした。
「来るよ。いつか、必ず。……あの子の、続きが」
「……根拠は」
「僕はこれから、この国ぜんぶになる。国ぜんぶが感じることは、たいてい当たる。……それにさ、陛下」
三日月の光が、床の上で、静かに揺れた。
「置いていかれた続きってのは——呼ぶんだよ。続きを」
長い沈黙のあと、女王は言った。
「なら、賭けよう」
「うん」
「——この国の、最後にね」
「賭け金の話を、まだしてなかったね」
祠の屋根のあたりで、声が言った。
「陛下は、玉座と名前を賭けた。憎まれ役を最後までやり切る、っていう賭け金。兎は、百年の探し物。……で、僕はね」
「……輪郭、でしょ。散ったんだから」
「半分正解。もう半分はね——散ってるあいだの、僕の仕事」
「仕事?」
「君、この国に落ちた最初の夜から、ずっと感じてたでしょ。見られてる感じ」
「……うん。あんただった」
「あれね、趣味でやってたんじゃないんだよ」
声は、こともなげに言った。こともなげに、とんでもないことを言った。
「観測されてるものは、消えにくい。だから僕は、国ぜんぶに薄く伸びて——百年、国中のすべてを、見てたんだ。誰かに見られてる感じ、を切らさないように。気配ひとつぶんの観測でも、ないよりは、ずっとましだから」
未知留は、言葉が出なかった。
にやにや笑う闇。趣味の悪い視線。ずっとそう思っていたものは、この国が「なかったこと」にならないように、たった一人で百年張り続けた、世界でいちばん薄い見張りだった。
「で、ここからが賭けの怖いとこなんだけど」
声は、軽いままだった。軽いままなのが、いちばん怖かった。
「君、陛下の保存措置——札のこと、もう知ってるよね。崩れる前なら、仕舞ってもらえる。眠って、待てる。……でもね、僕は駄目なんだ」
「……なんで」
「輪郭がないと、札にならないんだよ」
夜の森が、しん、とした。
「散っちゃったからね、僕。集めても、もう全部は戻らない。つまり僕は、この国でただ一人——仕舞ってもらえない住人なんだ」
「真夜中が来たら……」
「うん。他のみんなは『保存されていた事実ごと消える』けど、僕はもっとシンプル。最初から、いなかったことになる。……ね、賭けとしては、なかなかの掛け金でしょ」
「……なんで、そんな」
「忘れられるほうは、もっと怖いんだよ——って、前に言ったでしょ」声が、少しだけ近くなった。「あれの最終形がこれ。どうせ一番怖いところに立ってるなら、全部賭けたほうが、割は合うんだよ」
未知留は、聞いた。聞かなければいけない気がした。
「……負けたら、どうなると思う? って、聞いてほしそうだから聞くけど」
「はは。じゃあ答えるけど」
声は、一拍おいて、言った。
「僕が負けたらね。君があの日、白薔薇の中で僕を撫でたことも——なかったことに、なる」
「…………」
「いなくなるのは、まあ、いいんだ。百年やったし。でもあれが、なかったことになるのはね。……それだけは、ちょっと嫌だなあ」
未知留は、立ち上がった。
夜の闇の、声のするあたりを、まっすぐに見た。
「——させない」
「…………」
「撫でたのは、私。なかったことにするかどうかは、あんたの賭けじゃなくて、私の器の話でしょ」
闇のどこかで、猫が、本当に小さく笑った。いつもの、からかいの笑いではなかった。
「……ほんと、君は」
その先は、言わなかった。

「残り時間の話も、しておこう」
白ウサギが、懐中時計を開いた。
数字のない文字盤。星の粒——未知留の粒は、もう数えるのをやめたほど増えている。そして、針。
「賭けの刻限は、真夜中。……百年で、ここまで来た」
針の先と、文字盤の最上部の間に、白ウサギは指を一本、そっと添えた。
隙間は、ちょうど、指一本ぶんだった。
「残りは——これだけだ」
誰も、大げさなことは言わなかった。言わないことが、いちばん重かった。

「さて」
帰りの丘で、猫の声が、いつもの軽さに戻って言った。
「兎の過去。帽子屋の過去。陛下の過去。——三つとも、聞いたね」
「……うん」
「外側も、内側も、出揃った。役者の百年は、ぜんぶ君に渡した。残ってる話は、あとひとつだけ」
「あとひとつ?」
「そ」
声は、未知留のすぐ後ろ、視界のぎりぎり外側で、優しく言った。
「そろそろ——君の話を、しようか。君の、器の話」
(第20章 了)