
落ちながら、未知留は数をかぞえていた。
十七まで数えて、やめた。落下というものは、こんなに長く続かない。体が知っている。遊具から落ちたときも、階段を踏み外したときも、地面はもっとせっかちだった。
つまり、これは落下ではない。
「夢にしては、風が冷たいんだよね」
誰にともなく言うと、闇のどこかで、くすりと笑う気配がした。
「夢だと思う?」
三日月の笑みが、視界の右下に浮かんだ。口だけ。目は、少し遅れて現れた。
「思わない。……で、あんた何」
「猫だよ」
「猫は喋らない」
「ウサギも喋らないよ、普通はね」
言い返せなかった。
「着くよ」と笑みが言った。「膝を、軽く曲げて」
言われた通りにした瞬間、足の裏に地面が来た。衝撃はほとんどなかった。落ち葉の積もった森の中——ただし、落ち葉には色がなかった。灰色というのとも違う。色が「抜けて」いた。
着地で手をついていた。手のひらに小さな擦り傷。じんわりと痛い。
——夢じゃない、か。
顔を上げる。木々の隙間から見える空は、夕暮れの薄闇のまま動かなかった。オレンジと藍色の境目あたりで、空ごと凍りついたような色だった。
「ウサギは?」
「はぐれたね。よくあることだよ、あの兎は慌てるから」
「ここ、どこ」
「不思議の国——って言っても、通じないか」笑みが、闇の中でゆっくり傾いた。「みんなは今、ダークランドって呼んでる。昔は別の名前だったけどね」
「……帰り道は」
「さあ。案内はするよ。どこへ着くかは、君次第だけど」
笑みが森の奥へ、すうっと流れた。ついてこい、ということらしい。
未知留は一瞬、その場に立っていた。帰ればいい——って、どうやって? 振り返っても、落ちてきた穴も、くぐった扉も、どこにもない。
歩き出した。他にできることがなかったからだ。
そう、自分に言い聞かせた。
森を抜けると、薔薇園があった。
正確には、薔薇園だったものが、あった。生垣は形を保ち、蕾も花も枝についたままだ。ただ、すべての薔薇が白かった。白い、というより——色が、ない。塗り忘れられた塗り絵みたいに。
花びらにそっと触れてみる。ひんやりと、紙のような手触りがした。
「触っても、色は戻らないよ」
チェシャ猫の声だけが言った。笑みは、いつの間にか見えなくなっていた。
かちゃ、かちゃ、と金属の音がしたのは、そのときだった。
生垣の向こう、道の先。何かが、列を組んで歩いてくる。
未知留はとっさに生垣の陰にしゃがんだ。理由は分からない。体が先に動いた。
隙間から見えたのは、兵隊だった。槍を持ち、鎧をつけ——顔のあるべき場所に、トランプの札が貼りついていた。スペードの4。スペードの7。札の下に顔があるのかどうかも、分からなかった。
六体の兵は、まったく同じ歩幅で、まったく同じ音を立てて、目の前の道を通り過ぎていった。誰も喋らなかった。足音のほかは、鎧の軋む音だけがした。

行進が見えなくなっても、未知留はしばらく動けなかった。
「……何、今の」
「兵隊だよ。女王陛下の」
「顔、札だった」
「うん」
チェシャ猫は、それ以上言わなかった。珍しく。
立ち上がると、膝が少し震えていた。それを認めるのが嫌で、未知留はわざと大股で歩いた。
そのとき、風に乗って、音楽が聞こえた。
オルゴール。楽しげな、お茶会の音楽。——あの扉の前で聞いた音だ。
そう気づいた瞬間、足が勝手に速くなっていた。
生垣の切れ目を抜けると、そこだけ、世界の明るさが違った。
長いテーブルに、白いクロス。積み上がったティーカップ。ポットは湯気を立て、焼き菓子の皿が並び、椅子の背もたれにはハート形の飾り彫り。カップにも、ポットの腹にも、庭園灯の傘にも——よく見れば、そこらじゅうにハートマークがあった。灯りは蜂蜜色で、色の抜けた世界の中で、ここだけ時間が優しいままみたいだった。
テーブルの真ん中で、大きな帽子の男が立ち上がった。
「お客さんだ!」
帽子屋は両手を広げた。
「お客さんだお客さんだお客さんだ! 三月、起きろ! ネズミも起きろ! カップを温めて、椅子を引いて——ようこそお嬢さん! 席はどこでも、好きなところへ!」
テーブルの端で、耳の長いウサギが跳ね起きた。白ウサギより大きくて、目が忙しい。ティーポットの蓋がぱかっと開いて、中から眠そうなネズミが顔だけ出し、また引っ込んだ。

「……どうも」
未知留は座らなかった。「あの、聞きたいことが」
「お茶が先!」三月ウサギがカップを突き出してくる。「質問はミルクのあと!」
押し切られて、端の椅子に浅く腰かけた。注がれた紅茶は、驚いたことに、ちゃんと温かかった。色のないこの世界で、紅茶の色だけが濃く、正しかった。
一口飲んで、未知留は少しだけ黙った。おいしかったからだ。悔しいことに。
「ここって、いま何時?」
「6時だよ」帽子屋は即答した。
ポケットのスマホを出してみる。画面は真っ暗なまま、何も映らなかった。
「6時って、朝の? 夕方の?」
「お茶の6時さ」
「……じゃあ、いつまで6時?」
「いつでも6時だよ」帽子屋は、なんでもないことのように言った。「6時はね、一番いい時間なんだ」
「……日、暮れないの」
「暮れないねえ」帽子屋はのんびりと空を見上げた。「ここしばらく——どれくらいだろうね、三月?」
「知らない! ミルク取って!」
会話が、ふわふわと手応えなく流れていく。未知留はカップを置いた。
「私、帰りたいんだけど。帰り方、知らない?」
帽子屋は、きょとんとした。
「帰る? どうして?」
「どうしてって……」
「ここには時間が、いくらでもあるのに」
悪意は、なかった。それがいちばん変だった。帽子屋は心の底から不思議そうに、未知留を見ていた。
言葉を探して、未知留はテーブルの上に目を落とした。そして、気づいた。
テーブルのいちばん奥。誰も座っていないのに、一席だけ、きちんと整えられた席があった。カップは伏せられず、皿は磨かれ、椅子はまっすぐに引かれている。他の席の賑やかな乱雑さの中で、そこだけが、しんとしていた。
「……あの席は?」
三月ウサギの耳が、ぴんと立った。
「駄目! その席は駄目!」
「座らないよ。誰の席か、聞いただけ」
帽子屋が、ゆっくりとカップを置いた。さっきまでの騒がしさが、一拍だけ、遠のいた気がした。
「——予約席なんだ」
「予約? 誰の」
「さあ、誰だろうねえ」
帽子屋はもう笑っていた。「ミルクのおかわりは?」
はぐらかされた、と思った。でも、それ以上聞いてはいけない気も、なぜかした。
そのとき、生垣の外から聞き覚えのある声が飛んできた。
「いた! いたいたいた! 未知留くん!」
白ウサギだった。生垣の切れ目の向こうに立って、こちらへ必死に手招きしている。——中へ入ってこようとは、しなかった。
「探したのだぞ! ああもう、なぜよりにもよって……いいから、そこから出たまえ。早く」
「お茶、まだ途中」
「出たまえ!」
有無を言わせぬ声だった。未知留は立ち上がり、帽子屋に軽く頭を下げた。
「ごちそうさま」
「もう行くの?」帽子屋は不思議そうに言った。「まだ6時なのに」
「……また来る、かも」
「いつでもどうぞ」帽子屋は帽子のつばを持ち上げた。「ここはいつでも、6時だから」
生垣を出ると、白ウサギは未知留の袖を引くようにして、先へ先へと歩いた。
「なんで入ってこなかったの」
「……む」
「外から呼ぶだけって、感じ悪くない?」
「あの場所が、苦手なのだ。私は」白ウサギは前を向いたまま言った。「理由は聞かないでくれたまえ」
聞かないでくれ、と言われると聞きたくなる。でも、白ウサギの耳がかたく後ろへ伏せられているのを見て、未知留はやめた。
代わりに、別のことを聞いた。
「ねえ。この国、時間が止まってるの?」
白ウサギの足取りが、一瞬だけ乱れた。
「……概ね、正しい」
「概ねって」
「止まっている、のではなく——残り少ない、が正確だ。だがまあ、君の感覚で言えば、この国の空はずっと、ああだ」
二人で、夕暮れのまま固まった空を見上げた。
「直せないの」
白ウサギは答えなかった。代わりに懐中時計を取り出し、蓋を開けて、すぐに閉じた。癖のような仕草だった。
そのとき——かちゃ、かちゃ、と、あの音がした。
道の前方。さっきよりも数の多い兵の隊列が、まっすぐこちらへ向かってきていた。先頭の兵の顔には、クラブの10の札。
「まずい」白ウサギの耳が跳ね上がった。「見つかった。隠れたまえ、早く——」
白ウサギは生垣の陰を探した。
未知留は、隠れなかった。
「未知留くん!?」
兵たちが、二人を囲むように停止した。誰も喋らない。槍の穂先が、動かない夕暮れの色を鈍く反射した。
怖くないと言えば、嘘になる。膝の震えが戻ってきていた。それでも。
——夢なら、とっくに覚めてる。帰り道は、ない。だったら。
未知留は、いちばん近くの兵を正面から見上げた。スペードの札の顔は、何も答えなかった。
「あんたたちの、いちばん偉い人のところに連れてって」
「な——」白ウサギが文字どおり飛び上がった。「何を言っている!」
「帰り方を知ってそうなのって、偉い人でしょ。この国でいちばん偉いの、誰」
「じょ、女王陛下だが、駄目だ。駄目だ駄目だ絶対に駄目——」
兵たちが、一斉に向きを変えた。丘の上へ続く道が、隊列の間に開いた。連行なのか、案内なのか、分からない形だった。
未知留は歩き出した。白ウサギが背後で何か言い続けていたが、足は止めなかった。
道の先、色のない丘の向こうに、城のシルエットが見えた。尖塔のてっぺんで、何かが小さく、ハートの形に光っていた。

——帰るため。それだけ。
自分にそう言い聞かせながら、未知留は気づいていなかった。自分の歩幅が、学校の廊下を歩くときよりも、ずっと大きいことに。
丘のふもとの闇で、三日月の笑みがゆっくりと浮かび、満足そうに細くなって、消えた。
(第2章 了)