
時計というものは、時刻を測るためにある——諸君はそう思っているだろう。
私の時計は違う。金の蓋を開けても、文字盤に数字はひとつもない。代わりに、星の粒に似た小さな光がまばらに散っている。針はいま、「真夜中」のわずか手前で震えている。
この時計が測るのは、もっと別のものだ。——残り時間、と言ってもいい。
夜の遊園地は静かだ。閉園後の観覧車は骨組みだけの影になり、街灯に照らされたメリーゴーラウンドの木馬たちは、行儀よく目を閉じている。私はベンチの隅に座って、今夜も張り込みを続けている。ヒトの視界の端、ピントの合わない場所。それが私に許された唯一の席だ。正面から見ようとカメラを向けても、そこには誰も写らない。振り向いた者の目にも、映らない。
百年、探した。針が落ちる前に、間に合う誰かを。
そして今日——時計が、生まれて初めて逆に鳴った。
コチ、と一度だけ。明るい音だった。
火曜日の五時間目は、世界がいちばん遠くなる。
七瀬未知留は頬杖をついて、白紙のノートを眺めていた。教師の声は薄い水の膜の向こうでくぐもって、意味になる前にほどけていく。転校して二週間。この教室の音は、まだぜんぶ他人の音だった。
窓の外、校庭の隅を、白いものが横切った。
未知留は目で追わなかった。
「ねえ七瀬さん、今の見た? 白い、犬……?」
隣の席の女子が小声で言った。
「ウサギでしょ」
窓を見ないまま答える。
「え?」
「前からたまにいるよ。どうでもいいけど」
頬杖の角度は変えなかった。女子は少し困った顔をして、前へ向き直った。教室の音が、また一段遠くなった。
放課後の廊下は下校の声で膨らんでいた。未知留はその中を一人で歩いた。掲示板の前を通り過ぎる。「進路希望調査 提出期限」の貼り紙。名簿の提出欄は、未知留のところだけ空白だった。
「七瀬ー。進路調査、お前だけまだだぞ」
背中に担任の声が当たった。
「白紙で出していいですか」
振り返らずに言った。
「よくない」
「じゃあ考えときます」
考える気のない言い方だと、自分でも分かっていた。
通学路の坂道は夕焼けに浸かっていた。未知留はイヤホンもせず、無音で歩く。
ガードレールの上——視界の端に、白いものがちょこんと座っていた。燕尾服。金の鎖。今日はやけに、はっきりと「そこにいる」。
未知留は、正面から見た。立ち止まりもしなかった。
「今日は近いね」
通り過ぎながら言うと、白ウサギは文字どおり飛び上がった。耳がピンと立つ。
「み、見えて——いや、待て待て待て。今、目が合ったか? 合ったな? 正面から!?」
「前から見えてるけど」
「前から!?」
白ウサギは慌ててガードレールの上を跳ね、追いかけてきた。挙動だけ見れば完全に喜劇だった。
「おかしい。私はヒトの視界の端にしか存在できないはずだ。正面から観測された瞬間、私という像は成立しなく——現にほら、隣のご婦人には見えていない!」
すれ違った買い物帰りの主婦が、怪訝な顔で未知留を見た。夕暮れの坂道で独り言を言う中学生に見えているのだろう。
「喋りかけないでくれる。変な人になるから」
「む、無視をするな! 百年だぞ、百年! 正面から見えた人間は君が初めて——」
未知留は立ち止まった。
白ウサギも止まった。

「夢とか幻覚が見えるのは、まともじゃない人だよ。知ってる」
初めてまっすぐに、ウサギを見て言った。
「私はあんたが見えても、追いかけたりしない。穴に落ちたりもしない。——期待しないで」
再び歩き出す。背中の向こうで、白ウサギがガードレールの上に立ち尽くしている気配がした。
「……逆だ」
小さな声は、たぶん未知留に届かせるつもりのないものだった。
——夢を信じる者に、私は見えない。彼女に私が見えるのは、世界を信じることを、やめかけているからだ。
白ウサギは懐中時計を開いた。針が微かに震えて、明るく鳴った。コチ。
——なんという皮肉だ。百年探した観測者が……よりにもよって、一番連れて行きたくない目をしている。
未知留の部屋は簡素だった。段ボールがいくつか、開けられないまま壁際に積んである。引っ越して二週間の部屋は、まだ「住んでいる」より「置かれている」に近かった。
机の上に、写真立てが一枚だけある。幼い未知留が、画用紙の絵を掲げて笑っている写真。絵にはウサギと、大きな帽子の男と、猫が描いてあった。お茶会の絵だ。
未知留は写真立てを、伏せて置いた。
ベッドに倒れ込み、天井を見る。
——近いね、って言っちゃった。
——話しかけたの、初めてだ。
部屋の隅。視界の端に、白い耳がひょこりと覗いた。
「いるでしょ」
天井を見たまま言う。
「いない」
「いるじゃん」
白ウサギは観念したように隅から出てきて、咳払いをした。
「……失敬。立ち去ろうとしたのだが、その、確認したいことが一つだけある」
そして懐中時計を差し出した。蓋の開いた文字盤には、星に似た光の粒——のはずのものが、ほとんど消えかけていた。
「この時計はね、ヒトの中にある『まだ何かを信じられる力』を測る。君のは——ほら、この通り、ほとんど空っぽだ」
「……悪かったね」
未知留は起き上がった。
「責めているのではない。むしろ逆で」
白ウサギは時計をぱちんと閉じた。
「空っぽの器ほど、よく響くのだよ」
「……何それ」
「こちらの話。——ではおやすみ、七瀬未知留くん」
「名前、教えてないけど」
「知っているとも。君を探すのに、百年かかったのだから」
聞き返す間もなく、白ウサギは視界の端へ滑るように消えた。
未知留は一人、部屋に残された。伏せた写真立てを、少しだけ見た。起こしはしなかった。
暗く、広大な玉座の間。
壁一面に、無数のトランプの札が整然と封じられている。図書館の書架のように。あるいは、標本箱のように。
玉座には女王が座っている。豪奢な、しかし色褪せたドレス。その表情は闇に沈んで見えない。傍らの台座には鳥籠がひとつ。中で黒い仔猫が丸くなっている。
床には、トランプの兵が数体、機械的に整列している。顔は札で覆われ、そこに自我の気配はない。

「……鳴かないのだね、お前は」
女王が鳥籠に向かって、静かに言った。仔猫——ダイナは女王を見上げた。威嚇もせず、甘えもしない。
「賢い。ここで鳴いても、聞く者はもういない」
女王は立ち上がり、壁の札の前へ歩いた。一番高い位置にある一枚の前で、足が止まる。その札だけが、他と違って、微かに脈打つように光っていた。
女王は手を伸ばしかけて、止めた。
「……もうすぐだ。針が落ちる前に、あの兎が誰かを連れてくる。百年、そういう約束だった」
「約束、ねえ」
闇の中に、三日月の形をした笑みだけが浮かんだ。姿はない。声と笑みだけがある。
「約束したのは兎と陛下。僕は約束なんてしてないよ。——予言しただけ」
「言葉遊びを」
「言葉遊びの国でしょ、ここは。……ねえ陛下。兎が見つけた子、どんな子だと思う?」
「夢見がちな子どもだろう。昔のように」
「はずれ」
笑みが、すうっと女王のすぐ横に移った。
「夢を見るのをやめた子だよ。——あの札と、そっくり同じ目をしたね」
女王の動きが、初めて止まった。高い位置の札が、一度、強く脈打った。
「……チェシャ。お前、どこまで知って」
「さあ? 僕はもう国中に散らばっちゃったから、どこまでが『知ってる』でどこからが『国がそう感じてる』のか、自分でも分かんないんだ」
笑みが闇に溶けていく。
「ただねえ、陛下。百年ぶりに、この国が——わくわくしてる」
女王は一人になった。玉座には戻らず、脈打つ札を見上げたまま、長いこと立っていた。
「……待たせたね」
それは、誰に向けた言葉だったのか。玉座の間には、聞く者はもういない。
数日後の休日は、嘘みたいによく晴れた。
遊園地のゲート前は家族連れで賑わっていた。その脇に、未知留は私服で、不機嫌に立っていた。手には招待券が二枚。
——「転校生歓迎会をしよう」って言われて、断りきれなくて、集合場所に来たら。
スマホが震えた。『ごめん! 全員行けなくなった!』
「……だと思った」
スマホを閉じる。別に、傷ついてない。この感じには慣れている。慣れているというのは、つまり、そういうことだ。
踵を返しかけた、その足元を——白い影が、ゲートの中へ走り抜けた。
未知留は、それを見送った。
手の中の招待券を見た。二枚。誰かと入るはずだった枚数のまま。
——帰ればいい。帰って、白紙の進路調査でも眺めてればいい。
——でも。
——「君を探すのに百年かかった」って、どういう意味?
未知留は、ゲートをくぐった。
園内は音で溢れていた。回転する木馬、軋む観覧車、チュロスの匂い、どこかスペインの街並みを思わせる石畳。その全部の隙間を縫うように、白い影がちらつく。
視界の端に白——追うと、消える。また端に——追うと、消える。
だんだん、未知留の歩調が速くなる。小走りになる。息が上がる。
——なんで追いかけてるんだろ、私。
——追いかけないって、言ったのに。
夕方、園の奥。人気の絶えたエリアに、そこだけ空気の違う建物があった。蔦の絡んだ古い屋内アトラクション。看板の文字は薄れて読めない。
入口の扉が、少しだけ開いていた。隙間から見える内側の闇は、夕暮れの屋外よりも、明らかに「濃い」。
扉の前に、白ウサギがいた。今度は逃げなかった。まっすぐに未知留を見ていた。
「……来ないと思っていた」
「……帰ろうとした。三回」
息を整えながら答える。
「四回目は?」
「……なかった」
目をそらして言った。
白ウサギは懐中時計を開いた。空っぽだったはずの文字盤に——小さな光の粒が、一つだけ灯っていた。白ウサギはそれを見て、目を細めた。
「七瀬未知留くん。最後に一度だけ確認する。この扉の先は、安全ではない。楽しいだけの場所でもない。闇に飲まれた国で、猫が一匹、囚われている」
「……猫?」
「ダイナという。——ある少女の、忘れ物の番をしている猫だ」
風が吹いて、扉がきしみ、もう少し開いた。闇の奥から微かに、オルゴールに似た音楽が流れてきた。楽しげな、お茶会の音楽。
未知留の頭の中で、一瞬、何かが光った。伏せた写真立て。画用紙の絵。ウサギと、帽子の男と、猫——
「……一つだけ聞いていい」
扉を見たまま言った。
「どうぞ」
「百年前に探してた子と、私、何が違うの」
白ウサギは少し黙った。それから、静かに言った。
「——何も」
「何も違わないから、君なのだ」
未知留は、扉に手をかけた。
「……変なウサギ」
扉が開く。闇が、二人を迎え入れるように広がった。
同じ刻、玉座の間。
壁の高い位置で、あの札が——これまでで最も強く、鼓動のように光った。
女王が、静かに玉座から立った。
「——首をはねよ」
トランプの兵たちが、一斉に動き出す。
女王は闇の奥を見据えて、言った。
「客人だ。——百年ぶりの、ね」
落ちている。
上も下も分からない闇の中を、未知留は落ちていく。声も出ない。掴むものもない。
その闇の中に、ふ、と——三日月の笑みがひとつ、浮かんだ。

「いらっしゃい。——ずっと、君の続きを待ってたよ」
未知留は、目を見開いた。
(第1章 了)