
城門は、今度も勝手に開いた。
門の両脇に、兵が並んでいた。スペードの4。クラブの7。ダイヤの騎士。未知留が近づくと、彼らは一斉に——道を、開けた。
槍は、立てたままだった。誰の方にも、向かなかった。
——陛下は、君を傷つけない。それだけは、百年変わらなかった。
猫の声が、耳の奥で蘇る。歩きながら、未知留は自分の心臓の音を数えた。速い。怖くないわけがない。ここは処刑されかけた場所で、これから会うのは、それを命じた人だ。
それでも、足は止めなかった。一度目は連行だった。二度目は、自分で来た。
門の内側で、白ウサギが立ち止まった。
「……入って、いいのかね。私も」
誰も答えなかった。槍も、交差しなかった。
白ウサギは、狐につままれたような顔で敷居をまたいだ。前に来たとき、この門は彼を槍で拒んだのだ。

「……どういう風の吹き回しだ」
「入っていいってことでしょ」
「それが分からんから聞いている」
玉座の間の扉の前に、黒い仔猫が座っていた。
「……ダイナ」
名前を呼んでも、鳴かなかった。ダイナは立ち上がり、尻尾をぴんと立てて、閉じた扉の隙間へするりと消えた。先導のつもりらしかった。
扉が、内側から開いた。
玉座の間は、記憶のままだった。札で埋まった壁。高い天井。壁際の兵。赤い絨毯の先の玉座に、女王が座っていた。色褪せたドレス。顔は、玉座の闇に半分沈んでいる。
「——逃げた客人が、自分の足で戻るとは」
低く、乾いた声。床から響いてくる、あの声。
「この国も、まだ捨てたものではないね」
「……札に、会いに来た」
未知留は、まっすぐに言った。膝は震えていた。震えたままでいい、と決めていた。
「壁の、いちばん高いところの。脈打ってる札に」
「知っているのかい」
「猫に聞いた」
「……あの猫は」女王は、深く息を吐いた。「百年黙っていたくせに、喋り出すと早いね」
そのときだった。玉座の間の脇の扉が、軋みながら開いた。
入ってきたのは、小さな老人だった。
兵に連れられてはいなかった。支えられてもいなかった。自分の足で、一歩ずつ、絨毯の脇を歩いてきた。腰の曲がった、ランタンを提げた老人。その輪郭が——滲んでいた。
濡れた絵筆でなぞられた水彩画。髪の先が、指の先が、煙になって空気に溶けていく。三章で見た侍女と、同じだった。
未知留は、息を止めた。
老人は玉座の前で膝をつき、ランタンを床に置いた。火は、入っていなかった。
「陛下」
掠れた、遠い声だった。
「街道の灯りは、ぜんぶ消して参りやした。仕舞い忘れは、ございやせん。……もう、限界でさ」
「名は」
「とうに」老人は、笑ったようだった。「……けど、灯りの点け方だけは、まだ覚えておりやす。妙なもんですねえ。自分の名前より、火のつけ方のほうが、長持ちするとは」
女王は、玉座から老人を見下ろしていた。長い沈黙だった。
「……よく持ちこたえたね」
同じ台詞だった。三章で聞いた、労いか皮肉か判別のつかない、あの平坦な声。
なのに——今度は、労いにしか、聞こえなかった。
台詞は、何も変わっていない。変わったのは、聞いている自分の方だ。
女王が、立ち上がった。
「——首をはねよ」
一体の兵が老人の前に立ち、手のひらを、その滲んだ顔にかざした。
老人の顔が、札になった。白い長方形が顔を覆い、体へ流れ、煙になりかけていた輪郭を、硬い直線で引き直していく。曲がった腰が伸び、ぼろの外套は鎧に固まり、数秒後、そこに膝をついていたのは、顔に札を貼りつけた一体の兵だった。胸に、ダイヤのマーク。
そして、薄い光がひとつ、その胸からこぼれた。
一枚の札。ダイヤの、6。
女王は絨毯を降りて、自らそれを——両手で、受けた。
胸の高さで、一拍。まるで聖歌の休符みたいな、短い静止。それから女王は壁へ歩き、空いた場所に、札を納めた。指先が札の縁を、最後にそっと撫でたのを、未知留は見た。

隣で、白ウサギがゴーグルを外していた。目を伏せ、耳を垂らして、身じろぎもしない。
「……何、してるの」
「観測者の礼だ」白ウサギは小声で言った。「逝く輪郭への、ね」
未知留は、壁を見た。何百枚の札。標本箱だと思っていた。戦利品だと思っていた。
——違う。
これは、棚だ。消えるはずだった人たちを、消えない場所へ仕舞っておく棚。
三章と同じ画だった。手のひら。札になる顔。こぼれる光。壁へ納める女王。何もかも同じで——まるで、違うものに見えた。
これは、処刑じゃない。
保存だ。
「……眠ってるの。あの札の中で、みんな」
「さあね」女王は壁を見たまま言った。「札に訊いたことはないよ。訊けるものなら、私が訊きたい」
「じゃあ、なんで」
「崩れて消えるか、札で眠るか」女王は振り返った。「選べるのは、それだけの国なのさ。ここはもう、ずっと前からね」
「…………」
「気に入らないかい」
「……最初に会った日」未知留は、声に力を入れた。「あんたは私にも、同じ命令を出した」
「出したね」
あっさりと、女王は認めた。
「私も、仕舞うつもりだった?」
「手が、出た」
女王の声は、変わらなかった。低く、乾いたまま。
「百年、消えるものを仕舞い続けてごらん。癖になるよ、ああいうものは。——消えかけたものを見ると、手が先に動く」
未知留の背中が冷えた。怖い、と思った。同時に、分かってしまった。この人は百年、燃え尽きていく国で、消える端から住人を拾い集めてきたのだ。拾う以外の手を、とっくに使い果たして。
「でも、私は助かった」
「止められたのさ」
「誰に」
「——鳴いただろう、あれが」
女王の視線が、足元へ落ちた。いつの間にか、ダイナが未知留のそばに座っていた。金色の目が、まっすぐ女王を見上げていた。
「……目が覚めたら、杖を持ってた」未知留は言った。「あんたが、持たせたの」
女王は、答えなかった。代わりに、こう言った。
「客人の道具は、客人の手にあるのが道理だよ」
否定では、なかった。
「もうひとつ、聞いていい。なんで皆を怖がらせるの。処刑だなんて、思わせたまま」
女王は、ゆっくりと扇を開いた。
骨の見える、古い扇だった。よく見ればその面には、彩色の剥げた絵の跡があった。何が描いてあったのかは、もう分からない。ただ、かつて色鮮やかだったことだけが、分かる。
「お前は初めて会った日、帰り方を訊いたね。……昔の客人は、誰も訊かなかった。遊んで、笑って——それはそれは、よく燃えた」
「……言葉の綾だって、言った」
「綾なものかね」扇の向こうで、女王の目が細くなった。「客人の笑いも、驚きも、この国では火になる。国はその火で灯ってきた。いまは、客人が来ない。……来ない火の代わりに、何を燃やすと思う」
「……怖がらせて」
「恐怖はね、安い火だ」女王は言った。「誰からでも、いくらでも、絞れる。——好かれる必要も、ない」
好かれる必要もない。
その一言が、玉座の間の高い天井に、静かに消えていった。未知留は、この人が百年かけて自分を何に作り変えたのかを、その一言の分だけ、見た気がした。
「なんで、そこまでするの」
「ハートの女王、だからね」
女王は扇を、ぱちりと鳴らして半分閉じた。
「私は、全員のハートを預かっている。……それだけの話だよ」
「壁のいちばん高いところ。見えるかい」
女王が、顎で示した。
見えた。何百枚の暗い札の中で、一枚だけ、心臓の音みたいに明滅している札。三章のあの日より、ずっと強く、ずっと速く。
「あれと、お前は、同じ目をしている」
「……猫にも、そんなこと言われた」
「初めて会った日に、言ったろう。百年待った、と」女王の声は、平坦なままだった。平坦なまま、少しだけ静かになった。「私はね、あれを開ける鍵を、待っていた。百年」
「開ける……私が?」
「さあね。それを確かめる前に、お前は逃げたから」
「中身は。……誰なの」
女王は、扇を——音を立てずに、閉じた。
それが、答えの全部だった。
「客人」やがて女王は言った。「いまも、私が怖いかい」
「……怖い」
「よろしい」
「でも」
未知留は、女王の目を見た。近くで見る女王の顔は、あの日と同じ、崖みたいな無表情だった。
「——怖いものが、悪いものとは限らないって、聞いた」
扉のそばで、白ウサギの耳が、ぴんと立った。
女王は、長いこと黙っていた。扇を持つ手が、一度だけ、わずかに動いて、止まった。
「…………そうかい」
下降調の、短い返事だった。それだけだった。ただ、崖みたいな無表情の、目のふちだけが、ほんの少し、やわらいだ気がした。見間違いかもしれない。その程度に。
ダイナが、動いた。
未知留の足元を離れ、札の壁の真下まで歩いて、座り直す。小さな頭が、まっすぐ上を向いた。何百枚の札の、いちばん高い一枚へ。
そして、鳴いた。
みゃあ、と。短く、一度だけ。三章のあの日以来、二度目の声だった。

壁の高みで、札が——応えた。
これまでで一番強い光が、一度、二度、三度。鼓動が走るみたいに札から札へ伝って、壁全体が、ほんの一瞬、さざ波のように明るんだ。
白ウサギが懐中時計を取り出して、蓋を開けて——閉じ忘れた。開いたままの文字盤を、信じられないものを見る目で見ていた。
女王が、玉座の脇を通り、奥の暗がりへ歩き出した。
「——ついておいで、客人」
振り向きもせずに、女王は言った。
「見せておくものがある」
ダイナが、先に立って歩き出した。
(第11章 了)