
白薔薇の庭園は、覚えているとおりの場所だった。
色の抜けた花。紙みたいな手触り。最初の日、ここで兵の行進を見て、膝が震えた。ずいぶん昔のことみたいに思える。まだ、そんなに経っていないはずなのに——この国では、「経つ」ということ自体が、うまく数えられないのだけど。
「聞きたいこと、って?」
声は、薔薇の生垣のどこかから聞こえた。姿はない。いつもどおり。
未知留は、まっすぐに言った。
「私の絵に、あんたがいた」
「うん」
「小さい頃に描いた、お茶会の絵。ウサギと、帽子の男と——猫。にっこり笑った猫。……あれ、あんたでしょ」
「うん。僕だよ」
即答だった。
未知留は、少しだけ黙った。この猫が、はぐらかしもせず、質問に質問で返しもせず、まっすぐに答えたのは、初めてだった。
「……なんで。私、あんたを見たことなかった。ここに落ちてくる前は、一度も」
「うん」
「見たことないものは、描けないでしょ」
「描けないね」
「じゃあ、なんで描けたの」
一拍、間があった。風が、紙の花びらを鳴らした。
「——あれは、君の記憶じゃない」
「……どういう意味」
「今日は、ここまで。その話はね」声は、軽さを取り戻した。「順番があるんだ。今日は、僕の話が先。そういう約束だからね」
「じゃあ、始めようか。……ああ、そうだ」
声が、ふいに周りじゅうに散らばった。
「僕の話をするんだから——ちゃんと、姿で話そうか」
闇という闇から、青が、ほどけてきた。
生垣の影から。花と花の隙間から。未知留自身の足元の影から。細い糸みたいな青い縞が、するすると宙を泳いで、一か所に集まっていく。声のあった場所に、輪郭が、閉じていく。
白薔薇の上に、猫がいた。
大きな猫だった。くすんだ青の体に、濃いティールの縞。ふさふさの胸毛。太いしっぽ。そして、あの三日月の笑みと、半分閉じた緑の目。絵本から抜け出してきたみたいな、堂々とした、綺麗な猫だった。

「はじめまして——が、正しいのかな。この形では」
「……ずっと、それでいればいいのに」
「無理。長くは保たないよ」猫は、こともなげに言った。「僕はもう、だいぶ広いから」
「広い?」
「話すと長い。でも、今日はその長い話をする日だ」
猫は薔薇の上に座り直した。しっぽが、ゆっくり揺れた。
「百年くらい前にね、この国は、忘れられ始めたんだ。理由はまあ、いろいろ。……で、住人はそれぞれのやり方で抗った。兎は、外へ出た。帽子屋は、時間を止めた。それは君、もう知ってるでしょ」
未知留は頷いた。逃げた者と、止めた者。
「で、僕は——賭けたんだ」
「何に」
「忘却ってやつの正体に、さ」猫の目が、すっと細くなった。「あれはね、消えることじゃないんだ。輪郭がなくなることなんだよ。名前とか、形とか、ここからここまでが自分、っていう線が、溶けること。……だったらさ。先に自分で捨てちゃえば、負けないでしょ」
「……捨てたの。輪郭」
「うん。国じゅうに散らばった。風の音とか、視線の気配とか、にやにや笑う闇とか。君が最初の日から感じてた『見られてる感じ』——あれ、ぜんぶ僕」
「趣味悪い」
「ひどいなあ」
猫は笑った。それから、笑いのかたちのまま、少しだけ止まった。
「——誰にも、見えなくなったけどね」
未知留の中で、祠の夜の声が蘇った。忘れるのが怖い? でも君、忘れられるほうは、もっと怖いんだよ。
「……あれ、一般論じゃなかったんだ」
「僕は嘘をつかないよ」猫は言った。「一般論だ、とも言ってない。『一般論、一般論』って言っただけ」
言われて、未知留は思い返した。この猫の言葉は、いつもそうだった。猫は喋らない、に「ウサギも喋らないよ、普通はね」。約束した、とは言わずに「予言しただけ」。ぜんぶ、ほんとうのことだけでできていた。ずるくて、正確で——たぶん、それしか、この猫には残されていなかった。
輪郭を捨てた者は、嘘をつくと、どこまでが自分か分からなくなるのかもしれない。
「で、ここからが本題」
猫は前脚を口元に当てた。考えるときの、猫の仕草。
「僕はこの百年、ずっと——札を配ってたんだ」
「札?」
「手札のことだよ。勝負の前に、いい札を、いい場所に配っておくの」
猫は、一つずつ数えるように言った。
「玉座の間に、鳥籠の猫がいたでしょ」
「……ダイナ」
「そう、それ。あの猫にはね、『あの子の残り』が宿ってるんだ。それを陛下に教えたのは、僕」
あの子。
お茶会の、あの子。帽子屋が百年待っている、あの子。
「外に出た兎に、『観測者を探しなよ』って吹き込んだのも、僕。……で、君があの扉の前に立つように、風向きをちょっとずつ整えたのも——半分は、僕」
「…………」
「怒った?」
「半分って、どこまで」
「招待券が二枚だったこととか、は僕じゃないよ。あれはただの、君の運の悪さ」
「最悪」
「でも扉が少し開いてたのは、僕」
未知留は、ため息をついた。怒る気力が湧かなかった。この猫は、たぶん怒られることも百年待っていた。
「……なんで、そこまでするの」
猫の声から、遊びが抜けた。
「城のいちばん高いところにね、札が一枚あるんだ」
「札って……壁の、あれ? いっぱいあった」
「あの中の、一枚だけ。百年、誰にも開けられない札。……脈を打つんだよ、あれは。生きてるみたいに。夜になると——って、この国はずっと夜みたいなものだけど——尖塔の上で、ハートの形に光る」
未知留は、思い出した。最初にこの国を歩いた日、丘の向こうに見えた、城のてっぺんの小さな光。
「僕はね」猫は言った。「君と、あれを、会わせたかったんだ。百年かけて、そのための手札を配ってきた」
「……なんで、私なの」
「最初の夜に言ったでしょ。——ずっと、君の続きを待ってたよ、って」
「覚えてる。不気味だった」
「あれも、嘘じゃないんだ」
猫は、未知留をまっすぐに見た。半眼の緑の目が、このときだけ、ちゃんと開いていた。
「僕が待ってたのは、君の続き。——あの絵の、続きだよ」
「……会えば、帰れるの。その札に」
「さあ」
猫は、いつもの「さあ」を言った。でも、続きがあった。
「でも、君の探してる『帰る時間』は、あの札の近くにあるよ」
帰る時間。帽子屋の言葉が、耳の奥で鳴った。この国の針を進められるのは、時計の外の手だけだよ。
「城へ行けば、女王がいる」未知留は言った。「私、処刑されかけたんだけど」
「されてないでしょ」
「……結果的には」
「結果がぜんぶだよ、お嬢さん」猫はひげを揺らした。「それにね、これは百年見てきた僕の、ただの観察だけど——陛下は、君を傷つけない。それだけは、百年変わらなかった」
あの兵たち。槍を、一度も向けなかったよ。
いつかの猫の独り言が、いまさら、意味を持って並び直した。
「行くかどうかは、君次第だけどね」
どこかで聞いた台詞だった。最初の夜、色のない森で。あのときは、突き放されているように聞こえた。いまは、違って聞こえる。ずっと、そういう猫だったのだ。決めるのはいつも未知留で、この猫は、道の脇で笑っているだけ。百年かけて配った札の、最後の一枚の行き先だけは、賭けの胴元にも決められない。
ふと見ると、猫の縞の端が、少しずつ、糸に戻り始めていた。
時間切れが、近い。
未知留は、しゃがんだ。それから、自分でもよく分からないまま、手を伸ばした。
猫の目が、まん丸になった。百年分の想定の、どこにもなかった顔だった。
胸毛に、手のひらが触れた。ふわふわだった。そして、ちゃんと、あたたかかった。

「…………」
猫は、何か言いかけて、やめた。それから、とても小さな声で言った。
「——久しぶりに、撫でられたなあ」
未知留は、何も言わずに、もう一度だけ撫でた。
言葉より、そのほうが通じる相手だと、思ったからだ。
縞が、ほどけていく。
青い糸が、風にさらわれるように、薔薇の間へ、影の中へ、散っていく。輪郭が開いて、猫は、また国に還っていく。最後に残ったのは、宙に浮かぶ緑の目と、三日月の笑みだけだった。
「ねえ。最後にひとつ」
未知留は立ち上がって言った。
「この国の、昔の名前は?」
チェシャ猫が「昔は別の名前だった」と言ったのは、最初の日だ。ダークランドは、あとから付いた呼び名だと。
笑みが、ゆっくりと傾いた。
「——思い出せたら、教えてあげるよ」
そして、消えた。
風だけが残った。未知留は、丘の上まで歩いて、城を見た。色のない丘の連なりの果て、暮れかけの空を背負った黒いシルエット。尖塔のてっぺんで、小さな光が、ハートの形に脈打っていた。
百年、誰にも開けられない札。
私の絵の、続き。
「……会いに行く」
誰にともなく、言った。
返事の代わりに、どこか遠くで、くすりと笑う気配がした。

玉座の間。
壁のいちばん高い場所で、あの札が——これまでで最も強く、最も長く、脈打った。鼓動は石壁を伝い、床を伝い、鳥籠の台座を、かすかに震わせた。
女王が、玉座から立った。
鳥籠の前まで歩き、百年、一度も開けなかった籠の扉を——開けた。
「……行くのかい」
ダイナは、丸くなったまま、動かなかった。
ただ、耳の先だけが、ぴくりと立った。扉の向こう、廊下の先、城門のさらに向こう。色のない丘を、こちらへ向かって歩いてくる、小さな足音の方角へ。
「そう。——まだ、か」
女王は籠の扉を開けたままにして、玉座へ戻った。
闇の中で、札がもう一度、強く脈打った。
(第10章 了)