許という漁師がいた。
中国の淄川という土地で、町の北に住んでいた。日が暮れると酒を持って川へ出かけ、網を入れ、魚がかかるのを待ちながら飲む。
最初のひと口だけは、いつも地面に注いだ。
「この川で溺れた人も、飲んでくれ」
酒が土にしみるのを見届けてから、自分の口へ運ぶ。それが習慣だった。

ほかの漁師が空の籠を抱えて帰る夜でも、許の籠には魚が入った。運がいいのだと、人は言った。
ある晩、許が一人で飲んでいると、少し離れたところに青年が立っていた。
呼びかけてくるでもなく、立ち去るでもない。
許は杯を上げた。
「飲むかい」
青年は近づいて、隣に腰を下ろした。
二人は酒を分け合った。川の音を聞き、話し、また飲んだ。ところが、その夜に限って魚がかからない。
許が空の網を引き上げると、青年が立った。
「少し下流へ行ってきます。魚を、こちらへ追ってきましょう」
暗い川辺に姿が消えた。
ほどなく戻ってきて、青年は言った。
「来ましたよ」
水面で、ぱくぱくと音がした。網を上げると、大きな魚が何匹も跳ねた。
「こりゃあ、ありがたい。持っていってくれ」
許が魚を差し出すと、青年は首を振った。
「いつもお酒をいただいていますから。このくらいでは、お返しにもなりません」
「いつも? 一緒に飲んだのは、今夜が初めてだろう」
青年は答えず、川を見ていた。
「まあいい。また来なよ。大したものはないが、酒くらいならある」
「では、お言葉に甘えて」
帰り際、許はようやく名前を聞いた。
「王といいます。王六郎と呼んでください」
翌日、許は魚を売った金で酒を買った。
夜の川辺には、六郎がもう来ていた。
それから毎晩、二人は飲んだ。杯を重ねると、六郎は魚を追いに行く。許は網を上げる。
そうして、半年が過ぎた。
*
「お別れをしなければなりません」
その晩、六郎は杯を持ったまま言った。
「どこかへ行くのか」
六郎は口を開きかけ、閉じた。許は酒を注ぎ足し、待った。
「あなたとは、身内よりも親しくなりました。だから、隠したまま行きたくないのです」
声が低くなった。
「私は、生きている人間ではありません」
許の手が止まった。
「酒が好きでしてね。何年か前、酔ってこの川へ落ちました。そのまま、ここにいるのです」
許は、青年の顔から川へ目を移した。
足元まで来ては引いていく水が、急に深く、暗く見えた。
「あなたは毎晩、私たちのために酒を注いでくれた。うれしかったのです。それで、魚を網へ追い込むようになりました」
いつもお酒をいただいていますから。
初めて会った夜の言葉を、許は思い出した。
怖くないわけではなかった。けれど、隣にいるのは半年ものあいだ酒を飲んできた六郎だった。許は置きかけた杯を、もう一度持ち直した。
「それで、どこへ」
「明日、私の代わりになる人が来ます。そうすれば、私は川を離れて、生まれ変われる」
六郎はうつむいた。
この川の霊は、次に溺れる者が身代わりにならなければ、水を離れられないのだという。
「一緒に飲めるのは、今夜までです」
許はしばらく黙っていた。
「だったら、めでたいことじゃないか」
ようやくそう言って、杯を差し出した。
「長いこと、ここにいたんだろう。出られるなら、喜ばなきゃいけない」
そう言う自分の声が、湿っていた。
二人は飲み続けた。酒が少なくなったころ、許は聞いた。
「その、代わりになる人というのは」
「明日の昼、川を渡ろうとする女の人です」
遠くの村で鶏が鳴いた。
別れ際、二人とも泣いていた。
*
翌日の昼、許は川辺にいた。
赤ん坊を抱いた女がやってきた。川を渡ろうとして、足を踏み外した。
水がはねた。
赤ん坊は岸へ投げ出された。手足をばたつかせ、泣き声を上げた。母親の頭が水から出て、また沈んだ。
許は腰を浮かせた。
助けなければ。
けれど、六郎の言葉が浮かんだ。
明日、私の代わりになる人が来ます。
許は、踏み出せなかった。
女は何度も浮き沈みした。その手が岸にかかった。濡れた体を引きずり上げ、地面に伏せて、しばらく動かなかった。
やがて身を起こすと、赤ん坊を抱き上げた。
女は子を抱いたまま去っていった。
許は見送った。助かったことにほっとしながら、六郎はどうなったのかと思った。その二つが、胸の中で離れなかった。
夜、いつもの場所へ行くと、六郎が来た。
「また会えましたね。今夜は、お別れを言わなくてもよさそうです」
「あの女の人は、助かったぞ」
「ええ。私が放しました」
六郎は、岸のほうへ目を向けた。
「赤ん坊が泣いていたでしょう。お母さんが死ねば、あの子も生きられないかもしれない。私一人が出ていくために、二人の命を失わせるのは、できませんでした」
「それじゃ、おまえは」
「次がいつになるか、わかりません」
少し間を置いて、六郎は言った。
「あなたと私の縁が、まだ尽きていなかったのでしょう」
許は酒の蓋を開けた。
昼間、自分が動かなかった岸が、暗がりにあった。
「六郎。おまえのその心は、きっと天にも通じるよ」
杯を渡すと、六郎はいつものように受け取った。
また、二人で飲む夜が始まった。
*
数日後、六郎が言った。
「今度こそ、お別れです」
許は顔を上げた。
「また、誰かが溺れるのか」
「いいえ」
六郎は首を振った。
「あの人を助けたことが、天の帝に届いたそうです。招遠県の鄔鎮という村で、土地を守る神を務めることになりました。明日、そこへ行きます」
「神様に」
「もし、私のことを忘れずにいてくださるなら、一度訪ねてきてください。遠いところですが」
許は喜んだ。けれど、すぐに困った顔になった。
「遠いのは構わんよ。でも、人と神様だ。行ったところで、会えるものなのか」
「来てくだされば、それで」
六郎は何度も、来てくださいと言った。
家に帰ると、許は旅支度を始めた。
妻は話を聞いて笑った。
「そんな遠くまで? 本当にその村があったとして、土でできた神様の像と、おしゃべりするつもりかい」
許は荷物をまとめる手を止めなかった。
*
招遠まで行って尋ねると、鄔鎮という村は、確かにあった。
許は村の宿で荷を下ろし、土地神の祠がどこにあるか聞いた。
宿の主人は、許の顔をまじまじと見た。
「もしや、お名前は許さんでは」
「そうだが。どうして知っている」
「淄川から、おいでに?」
「ああ。なぜ」
主人は答える前に外へ飛び出した。
ほどなく、人が集まってきた。子どもを抱いた男、戸口からのぞく女。宿の前がいっぱいになった。
許が戸惑っていると、一人が言った。
「何日か前に、神様が夢に現れたんです。淄川から許という友人が来るから、旅の用立てをしてやってくれ、と」
「私も、同じ夢を見ました」
別の者も言った。
「お待ちしていたんですよ」
許は祠へ案内された。
持ってきた酒を供え、像の前に座った。
「六郎。来たぞ」
村人たちが、後ろで静かになった。
「別れてから、寝ても覚めても、おまえのことを考えていた。約束どおり、訪ねてきたよ。こっちの人たちにまで、世話を頼んでくれたんだな」
許は杯を置いた。
「大したものはない。酒だけだ。よかったら、川にいたときのように飲んでくれ」
供え物の紙銭を燃やした。
神座の後ろから風が起こった。ひとしきり、そのあたりを巡り、収まった。
その夜、許は夢で六郎に会った。
きちんとした衣を着て、冠をかぶっていた。川辺で会っていたころとは、見違える姿だった。
「遠いところを、よく来てくださいました」
六郎は、うれしそうで、泣きそうでもあった。
「ほんの小さな神の役目ですが、務めがあって、自由に姿を見せられません。すぐ近くにいるのに、山や川を隔てているようです」
「こうして会えた」
許が言うと、六郎はうなずいた。
「村の人たちから、少しお贈りするものがあります。昔からのお礼だと思って、受け取ってください。お帰りの日には、見送りに行きます」
*
許は数日、村に滞在した。
朝にはこちらの家から呼ばれ、夕方にはあちらの家で食事に誘われた。帰ると言っても、もう一日、と引き留められる。
ようやく出立が決まると、村人たちは包みを持って集まった。旅の餞別だった。午前のうちに、袋がいっぱいになった。
年寄りも子どもも、村の外まで送ってくれた。
道に、小さなつむじ風が立った。
許が歩くと、風もついてきた。
村を離れても、まだそばにいた。道端の草を揺らし、土を巻き上げ、しばらく先へ行っては戻ってくる。
十里あまり進んだところで、許は足を止めた。
荷を下ろし、風に向かって深く頭を下げた。
「六郎、達者でな。もう、そんなに遠くまで来なくていい」
風が、道の上を巡った。
「おまえなら、あの村の人たちを大切にするだろう。おれが頼むまでもないことだが」
風はしばらくそこにいた。
やがて、離れていった。

許は家に帰った。暮らしには少しゆとりができ、漁に出ることもなくなった。
その後も、招遠から来た人に会うと、鄔鎮の神様のことを聞いた。
頼めばすぐに応えてくださる、霊験のある神様ですよ。
人々は、そう答えた。
*
この話を記した蒲松齢は、出世しても貧しかったころの友を忘れない、その心こそ神にふさわしいのだ、と評している。
立派な車に乗るようになった人間のほうが、昔の友を見失うことがある。
六郎は神になってからも、川辺の漁師を待っていた。
原作は、蒲松齢『聊斎志異』巻一「王六郎」です。中国語原文をもとに、読みやすい日本語で語り直しました。逐語訳ではなく、会話・情景・心理の補筆を含む翻案です。
漁師の許が溺れる女性を助けるのをためらう場面、六郎が身代わりを放す場面、土地神になった後の再会と風による見送りは、原作の筋に沿っています。末尾の作者の評は要旨を紹介し、そこに添えられた別の人物の逸話と、舞台の所在地についての異説は省略しています。
原文参照:Project Gutenberg『聊齋志異』eBook #51828(中国語)、巻一「王六郎」。電子本文のクレジット:Chow Chih-Han。2026年9月9日参照。
https://www.gutenberg.org/ebooks/51828
原作:蒲松齢/日本語翻案:OpenAI Codex