「経理部の職員は全部で何人だ」
少しの沈黙。
「12名です」
さっきまで痛いほど静かだったオフィスに、その声が容赦なく響き渡る。落ち着いた女性の声だ。俺は慌ててスピーカーの配線を引き抜く。たまったものではない。
額の汗をぬぐいながら、苛立った時の癖で、下唇を強く噛む。冷や汗をかくのは正常な生理現象だ。なにせ俺は無人を狙って統計部に忍び込んでいるうえ、統計参照機を無断で使用しているのだ。ばれたら停職では済まない。
あたりを見回す。相変わらず人影はないし、聞こえるのは俺の鼻息とファンの音だけだ。
浅く息を吸う。
質問を変えてみよう。俺は用意していた台詞を口にする。
「私の次の異動先を教えてくれ」
今度は目の前のディスプレイに回答が表示される。
「ソノ質問ニハオ答エデキマセン」
聞いていた通りだ。俺は手元の取扱説明書に目を落とす。
本機がアクセス可能な情報は、S市に関する情報のうち、人数・金額・距離・時間など定量的な統計情報に制限されています。それ以外の内容を答えとする質問には回答できません。
これは個人情報保護の目的だろう。データベースには文字通りありとあらゆる情報が保存されているのだから当然だ。
行政に人工知能が使われ始めたのは十五年前のことだ。正確な判断には大量のデータが必要だという政治家の主張に、プライバシーにうるさい活動家たちが反対していた時期もあったが、その有用性が知れると、通話の音声から遺伝子情報まで、提供できるすべての情報は人工知能のデータベースに蓄えられている。
統計部はそんな中で市役所に新設された部署だ。統計参照機を使うことでデータベースから業務に必要な情報を出力することができる。もっともこんな機械、人工知能に完全に頼りきっている今となっては必要ないものなのだが。
平たく言えば、数字で答えられる質問でなくてはならないということだ。ならば、と考えていたことがある。
「この春異動になる三十四歳の経理部職員は何人だ」
今度は回答に時間がかかる。なにがそうさせているのだろう。
「0名デス」
よし。思いの外うまくことが運び、小さく声がでる。
これでわかったことが二つある。俺の異動がまだ先だということ。そして質問次第では具体的な情報を引き出してやれることだ。
時計に目をやりながら考える。準備に時間をかけすぎた、さっさとやるべきことを済ませてしまおう。
「今年度のM中学校の合格者は何人だ」
その学校の名前を口にした途端、思い出したくない記憶がよみがえる。YとNの野郎のことだ。二十年以上前、三人でM中を受け俺だけが不合格になるまでは、みんな同じように馬鹿をやっていたんだ。それがどう間違ったと言うのだろう、今じゃ二人は医者に官僚だ。それにうだつの上がらない低学歴の地方公務員とは話が合わないとでも言うのか、最近じゃ俺に黙って二人でつるんでいるらしい。構うものか。イタリア製だかなんだか知らないが、時代錯誤な真っ赤な鉄くずに女を乗せて意味もなく走り回すことを生きがいにしているような連中だ、こっちから縁を切ってやる。
あいつらと違って俺には愛する妻と息子がいるのだ。幼馴染だった妻は美人で、気立ても良い。俺にはもったいない女だ。子供が生まれる前は妻と寝るたび、俺は人生の運を彼女で使い果たしてしまったのだと確認した。息子は息子で、誰に似たのか頭の回転が早く、何かにつけ子供らしからぬ話を聞かせてくるので、食卓で妻と顔を見合わせることも多い。
「148名デス」
処理が終わっていることに気づき、同時に安堵する。よかった、M中の入試結果もアクセス可能らしい。
この148人の中に息子がいなくてはならない。
これは俺たち家族、いや俺の悲願なのだ。俺が届かなかったM中に何としても息子を入れたい、そう妻に打ち明けてからこの一年、勉強への投資は惜しまなかった。期待した通り息子は覚えも早く、先生たちにも一目置かれていたから、受験を考え直す理由は思い当たらなかった。こうした行動すべてが、ねじ曲がった劣等感の産物だということは自覚している。だが、そんなことも合格してしまえば笑い話になるのだ。
そう、すべてうまくいくはずだったのだ。
統計参照機を使おうと考えたのは、受験が終わった夜のことだ。帰ってきた息子は勉強から解放された喜びも出さず、部屋にこもってしまった。それが俺を不安にさせた。
自分でもおかしいとは思う。息子の受験の結果を知るために、わざわざこんなところに忍び込んでいるのだ。あと五日も待てば結果は出る、自分の立場を危険にさらしてまでやるようなことじゃない。今の俺を見たら、誰だってそう言うだろう。しかし俺にはこの五日間を乗り切れる気がしなかった。
これが最後の質問になる。
結果を知りたい気持ちが俺をここまで連れてきたのに、いざそれを口にしようとするとうまく声を作れない。質問をした数秒後には結果を知ってしまっているという事実に俺は怖くなったのだ。知りたくない。いや、たかが中学の合否じゃないか。しかし、波立つ気持ちは落ち着きそうもなかった。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
俺は目を瞑ってこう言った。
「M中学校合格者の中に私の息子は何人いる」
恐る恐る目を開ける。暗闇の中で光るディスプレイに焦点が合う。
「0名デス」
急に心臓が落ちたような感じがして、視界が狭くなっていくのを意識しながら、俺は何も考えられなくなった。
あのあとどうやって帰ったのか、よく思い出せない。家に着いた俺は何も食べずベッドに入った。妻に何か言われたが聞こえないふりをした。。次の日、会社で誰にも咎められなかったところを見ると、後始末はうまくやったのだろう。そして息子の不合格を知った晩からの五日間を、俺はひどい気分のままやり過ごした。
しかし、合格発表当日、予想もしないことが起きた。
結果は合格だったのだ。
職場にいて妻からのメールでそのことを知った俺は、居ても立ってもいられず席を立った。そして喫煙所に向かいながら書き終えたメールを、しばらく考えて送信した。
こんな日に悪い、遅くなる。
家に帰ると、息子は合格祝いのケーキを食べて眠くなったのだろう、いつもより早い時間だがドアの向こうで寝息を立てている。話がある、と言ったとき妻は目を見開いたが、すぐ諦めたように顔を伏せた。俺は怒る気にもなれず、言葉のやり場を失った。ごめん、今度Yを連れてくるから一緒に話し合いたい、妻は何か話し始めたが聞きたくない。俺は黙ったままテーブルの上に視線をやり、数時間前に印刷したばかりの統計参照機の履歴を眺めている。
「妻には何人の息子がいる」
「1名デス」
「私には何人の息子がいる」
「0名デス」