
九月二十四日。土曜日の朝。
秋分を過ぎたばかりの東京の空は、夏のあいだに少しずつ膨らんでいた湿度が、一晩で抜けたみたいに、静かに高かった。窓を、ほんの少しだけ開けて、桜子は、ベッドの上で、スマホを片手に、目を覚ましたところだった。
Slackに、ふつうなら鳴らない時間に、通知が一件、来ていた。遥からのDM。
@yamashita-haruka: 桜子さん、おはよう。土曜の朝にごめんね。
今日、もし時間があったら、神保町に、お茶しに行きませんか。
仕事の話、半分くらい、します。
混んでない店、あります。
桜子は、画面の中の、半分くらい、します という、見慣れない柔らかさの一行を、しばらく、読んだ。
行きます、と返した。
@mochizuki-sakurako: 山下さん、おはようございます。
行きます。何時に、どこへ伺えばいいですか
遥の返事は、すぐ来た。
@yamashita-haruka: 14時、神保町駅 A6出口で。
本屋を一軒だけ覗いてから、奥の、古い喫茶店へ。
お互い、PC、持たないで来てね
PC、持たないで。
桜子は、その一行を、もう一度、読み返した。
いつもと、違う。
十四時。
神保町駅A6出口。地上に出ると、九月の昼の光が、舗道の上で、長く、薄く、伸びていた。古書店の店先で、ワゴンに積まれた本が、文字どおり、山になっている。
遥は、すでに出口の近くに立っていた。普段の、ジャケット姿ではなくて、ゆるい、グレーのカーディガンを羽織っていた。手には、A5サイズの、薄い、布張りの鞄。中身が、ほとんど何も入っていないみたいに、平たかった。
「桜子さん、ありがとう、来てくれて」
「いえ、こちらこそ、お誘いいただいて」
遥は、軽く笑って、駅を出てから、最初の角を曲がった。古書店を一軒だけ、覗いた。文学の棚の、誰かの随筆集を、遥は、しばらく見ていた。買わなかった。
そこから、もう一本、奥の路地に入ったところに、その店はあった。
木製のドア。すりガラスの嵌まった小さな窓。電球の、橙色の光が、外の道の上に、ふわっと、こぼれている。看板には、創業の年が、漢数字で、書かれていた。一九六〇年。
遥は、ドアを押した。からん、と、低い金属の鈴の音が、鳴った。
店主の女性が、カウンターの中から、軽くうなずいて、「奥のほう、空いてるわよ」と、言った。
奥の、二人がけの席。木の小さなテーブル。革張りの椅子。電球は、頭の上で、橙色に、ぼんやりと、灯っていた。
遥は、メニューを、開かなかった。
「ブレンド、二つ、お願いします」
「はい」
店主の声は、丁寧で、それ以上は、何も、聞いてこなかった。
ブレンドが、運ばれてきた。
白い陶器のカップ。カップの縁に、ほんの少しだけ、欠けがある。長く使われている、ということが、分かるカップだった。
遥は、ブレンドを、両手で、温めるように、持った。
しばらく、店内に、誰も来なかった。
遥は、自分の鞄から、布表紙の、A5サイズのノートを、一冊、取り出した。
よれた表紙。背表紙のところに、糊が浮いている。表紙の、左下に、年月が、ボールペンで、書かれていた。2017年 から始まって、最後の月までが、横線で、消されたあとがあった。
遥は、そのノートを、ゆっくり、桜子の側に、滑らせた。
「読んでいい」
「えっ」
「最初から、最後の一ページの、手前まで。最後の一ページだけ、わたしが、後で、読み上げる」
桜子は、ノートに、手を伸ばすことが、しばらく、できなかった。
「あの、これ、山下さんの、私物、ですよね」
「うん」
「読んで、いいんですか」
「読んでほしいから、出した」
遥は、ブレンドのカップを、両手で、もう一度、温めるように持った。
桜子は、自分のおでこの汗を、ハンカチで、軽く、押さえてから、ノートを、ゆっくりと、開いた。

最初のページの上のほうに、日付が、書いてあった。
2017年8月17日 (木)
その下に、見覚えのある、項目の並びが、並んでいた。
発生日時:
検知日時:
影響範囲:
事象:
一次原因:
暫定対応:
恒久対応:
再発防止:
学び:
桜子は、息を、止めた。
五月の、初めてのバグの日に、鈴木が桜子の画面に共有してくれた、障害報告テンプレート。あの並びと、ほぼ、同じ。
ページを、めくっていく。
遥の字。几帳面で、少し、文字の角が立った字。
発生日時: 2017/08/16 23:42 JST (本番投入後の自動アラート)
検知日時: 2017/08/16 23:44 JST
影響範囲: 顧客企業 12社, 取引件数 3,221件のうち, 二重計上 87件
事象: 決済の二重計上が、ある条件下で発生
一次原因: 本番投入時の設定変更で、冪等性キーが上書きされた
暫定対応: 23:55 設定をロールバック (アプリ層)
※ DB層の中間状態は、ロールバックされず
恒久対応: 二重計上分を、翌日朝までに、手動で訂正 (会計部門と連携)
再発防止: ★ ロールバック手順が、本番投入時のチェックリストに
含まれていなかった
→今後、「Rollback手順がない変更は、出してはいけない」を、
わたしの個人原則として置く
学び: 深夜の判断は、戻すか、戻さないか、の二択にしない。
戻せる範囲と、戻せない範囲を、先に切り分ける
桜子は、その ★ の星印の、星形の、丸い縁が、鉛筆で、何度か、なぞられた跡を、見た。
星印は、ボールペンで書かれたあとに、何度も、何度も、鉛筆で、上から、なぞられていた。何回くらい、なぞったのだろう、と、桜子は、思った。
ページを、もう少し、めくる。
その日の翌日、翌々日、その翌週、と、ノートには、postmortem下書き の改稿、関係部署への共有メモ、お客さまへのおわびと再発防止のご報告(社外送付前下書き) の、いくつかの版が、続いていた。
桜子は、お客さまへの〜 の下書きの、二度線が引かれている部分を、しばらく、読んでいた。
「山下さん」
「うん」
「これ、五年前の、山下さんが、自分への、約束だったんですか」
桜子は、自分の声が、思っていたより、ずっと低い場所から、出てきたのを、知った。
遥は、ブレンドを、ひとくち、すすった。カップを、ソーサーに戻す音が、店内の、低い、控えめなジャズの音に、薄く、混じった。
遥は、しばらく、答えなかった。
桜子は、ノートのページの、★ の星印を、もう一度、指の腹で、軽く、押さえた。何度もなぞった星形が、紙の繊維の中で、すこしだけ、凹んでいた。
遥は、長い沈黙のあと、
「五年前のわたしは、自分を、許せなかった。だから、許してもらおうと思って、書いた約束、ではなかった。許さない、まま、続ける、ための、約束だった」
「許さない、まま」
「いまでも、わたしは、あの夜のわたしを、許してない。許す、というやり方を、まだ、知らない」
桜子は、目元が、ふっと、熱くなりそうになるのを、ぐっと、奥歯で、止めた。
「だから、わたしの、レビューは、桜子さんに、厳しい。桜子さん相手に、厳しい、というより、五年前のわたしに、厳しい、のかもしれない」
「……」
「桜子さんに、八つ当たり、してた、ってわけじゃ、ないんだよ。ただ、わたしの厳しさの根っこに、あの夜が、ある、というのは、本当」
遥は、ノートの、ページに、視線を、落とした。
星印は、紙の繊維の、奥にまで、凹んでいた。
テーブルの上で、遥のスマホが、短く、震えた。
遥は、画面を見て、ふっと、目元の力を、ゆるめた。
「あ、ごめん、出る」
遥は、ノートをそのままにして、スマホを片手に、店の外へ、出ていった。
桜子は、自分の手元のノートを、ゆっくりと、閉じかけて、最後の一ページの、手前で、止めた。遥が、後で読み上げる、と言ったページに、いきなり目が行かないよう、桜子は、手前のページに、人差し指を、しおりのように、挟んだ。
窓の外、遥の背中が、見えた。電話越しの相手に、軽く、何度か、うなずいているのが、ガラス越しに、分かった。声は、聞こえなかった。
十分くらいして、遥が、戻ってきた。カーディガンの肩のところに、薄く、外の風の匂いが、残っていた。
「お待たせ。前職の同僚から」
「お電話、大丈夫だったんですか」
「うん。土曜なのに、ごめん。あの夜の postmortem を、わたしと一緒に書いた人が、いまも、決済システムのRunbookを、整備してて」
「Runbook」
「うん。月一で、Runbookに、Rollback手順 の項を、新しく必要そうな箇所に、入れていく作業、彼女、続けてる」
桜子は、知らない人だった。けれど、その人が、五年前の遥の隣に、いたのだ、と、思った。
「で、いまね、彼女が、別件で、参考にしたい Runbook がある、って」
「はい」
「桜子さんの、unread_cache.md。あれ、見せていい?」
桜子は、息を、止めかけて、止めなかった。
「あ、はい、もちろん、はい。むしろ、僭越です」
「うちのRunbookの中で、フォーマットが、いま、いちばん、彼女の好みに、近いんだって」
遥は、半分、笑った。
「五年前のわたしと、同じ手で書いてる気がする、って、言われた」
桜子は、自分のメモ帳の、雨のレビューの日に書き留めた一行、書きかけたなら、書いておけば良かったよ を、頭の中で、もう一度、なぞった。
桜子の、雨の日のRunbookが、五年前の現場まで、薄く、繋がる気配を、桜子は、初めて、知った。
遥は、ブレンドの残りを、ひとくち、飲んだ。
桜子は、ノートに、しおりのように挟んでいた、人差し指を、抜いた。
「最後の一ページ、開いていい?」
「うん。開いて」
桜子は、ノートの、最後の、一ページを、ゆっくり、開いた。
そのページは、遥の字では、なかった。
別の人の字。少し、太いボールペン。文字の、はらいの感じが、年配の人の、几帳面な字だった。
山下さんへ
君は、戻せなかった、と思っているけれど、
戻せなかった夜は、君のなかで、ずっと、戻り続けている。
戻り続けるのを、止めなくて、いい。
戻ってくる夜は、君を、次の現場で、もう一度、立たせる。
この一冊は、君の鞄から、外さないで。
辞めても、転職しても、引退しても、
鞄に、入れて、運んでください。
最後の上司より
桜子は、その一文を、何度か、読み直した。
声を、出さずに、目で。
遥は、頬杖を、軽く、ついて、桜子のページの上を、見ていた。
「これ、辞めるとき、当時の上司が、はがきの代わりに、書いてくれた」
「はがき、ですか」
「うん。本当は、はがきに書こうと思ったけど、長くなったから、わたしのノートの最後のページに、書いてくれた」
「読み上げる、って、おっしゃってたの、これ、ですか」
「うん。一回だけ、声に、出すね」
遥は、カップを、ソーサーに戻して、姿勢を、ほんの少し、整えた。
そして、店内の、低いジャズと、外の小さな車の音と、電球の、ぱちぱち、という微音の中で、遥は、その一文を、ゆっくりと、声に出して、読み上げた。
桜子は、何も、言えなかった。
遥は、読み終えてから、ノートを、桜子の側から、ゆっくり、引き寄せて、自分の鞄の中に、丁寧に、戻した。
「桜子さん、ありがとう、聞いてくれて」
「……いえ、こちらこそ、です」
「もうひとつだけ、いい?」
「はい」
「桜子さんも、いつか、自分の ★ の付く一行を、自分のノートに、書く日が、来ると思う」
「はい」
「来たら、なぞって、なぞって、紙が、すこし、凹むくらいまで、なぞっていい。けれど、誰かを、その凹みで、傷つけないでほしい」
「はい」
桜子は、自分の鞄の中の、メモ帳を、薄く、感じた。
まだ、桜子のメモ帳には、★ の星印は、ない。
けれど、いつか、その星印を書く日が来たら、なぞる手の力を、誰かを、その凹みで、傷つけないように、保とう、と、桜子は、思った。
会計を済ませて、店を出ると、外の空気は、夏とは、もう、別の温度だった。秋分を過ぎた東京の、夕方の手前の光が、神保町の路地を、橙色に、薄く、染めていた。
駅まで、桜子と遥は、ほとんど、何も、話さずに、歩いた。
別れぎわ、改札の前で、遥は、軽く、振り返った。
「月曜日、また、わたしのレビュー、たぶん、桜子さんから見て、厳しいと思う」
「はい」
「でも、今日のあと、その厳しさの、温度が、桜子さんの中で、少しだけ、変わるかも」
「……はい」
「それで、十分」
遥は、軽く、手を挙げて、改札の向こう側に、消えていった。
桜子は、改札の前で、しばらく、止まった。
鞄の中で、メモ帳が、いつもより、ほんの少しだけ、重く感じた。
帰宅したら、書こう、と、桜子は、思った。
今日のページには、星印は、まだ、書かない。
書かない日のことも、書ける、メモ帳に、しよう、と、思った。