
真波駅跡の時計が、動き出した。
針は午後四時十二分を指し、ひと目盛り進むたび、御詠市のどこかで雨の音がした。
晴れているのに、ゆいの赤いリボンだけが濡れていた。
「行かない」
すずが駅跡の異変を伝えると、ゆいは即座に答えた。
「でも、駅名がほとんど消えています。このままでは真波駅が記録から――」
「他の場所から調べて」
短い言葉の奥に、触れられたくない扉があった。
しおりは無理に開けなかった。
その夜、ゆいから一行だけ届いた。
《明日、駅へ行く。》
翌日の空は曇っていた。
旧線跡の草は雨も降っていないのに濡れ、錆びた線路の間へ小さな水たまりが続いている。ホームの駅名標には《真》の一部しか残っていなかった。
ゆいは待合室の前で立ち止まった。
「朝霧まな」
初めて、その名を口にした。

幼いころ、ゆいには毎日一緒に帰る友達がいた。まなが遠くへ引っ越す日、二人は真波駅で最後に会う約束をした。
雨の日だった。
ゆいは時間に遅れた。ホームへ着いたとき、列車はもうなく、まなの姿もなかった。
「待っててって言った。絶対行くって」
リボンを握る手に力が入る。
「でも、間に合わなかった。それから手紙も出せなかった。何を書いても、言い訳になるから」
待合室の壁へ、朱の万年筆が現れた。
持つ手はない。それでもペン先が動き、《遅れた》へ《破った》、《会えなかった》へ《裏切った》と赤字を入れていく。
マドカの声が、雨の向こうから聞こえた。
「後悔は、終わった過去を何度も読ませる誤植です。削除すれば、もう痛みません」
「消さないで」
ゆいがルビペンを抜く。
しかし赤字は、リボンの記憶まで切り取った。
ホームが濡れた原稿用紙へ変わる。止まった時刻表、錆びた線路、破れた切符が折り重なり、駅舎そのものが四本足で立ち上がった。
リターンレス・プラットフォーム。
背中の時計は午後四時十二分。口の奥には、どこへも続かない線路がある。

怪物が汽笛を鳴らすたび、ゆいは同じホームへ戻された。
走っても、叫んでも、時計は四時十二分で止まる。
《遅れた》《破った》《裏切った》
赤字が足元の水たまりから浮かぶ。
「私が斬る」
ゆいはインクブレードを構えた。
「この日ごと、切ればいい」
「それで、まなさんとのことも消える」
しおりの言葉に、刃が止まった。
「その方がいい」
「本当に?」
しおりは答えを重ねなかった。
ゆいの赤いリボンは、痛い記憶だけなら、ずっと持っている必要はなかったはずだ。
かなでが汽笛のあとの沈黙へ耳を澄ませる。
「音が返ってくる。待合室の奥から」
すずは古い構内図を開いた。
「現在の壁の裏に、手荷物ロッカーがあった記録があります」
ゆいが赤い糸を伸ばし、塗り込められた壁を縫うようにほどいた。
中から、小さな封筒が落ちた。
《ゆいへ》
幼い字だった。
ゆいの指が震え、封を切れない。しおりは隣に座り、待った。

やがて、ゆい自身が手紙を開いた。
《今日は会えなかったけど、また会おうね。約束、まだ持ってていい?》
紙には雨染みがあった。
まなも待っていた。会えないまま帰り、それでも続きを一つ、ロッカーへ残した。
「裏切ったって、決めてた」
ゆいの声が崩れた。
「まなもそう思ってるって。そう決めれば、もう会いたいって思わなくてすむから」
マドカの赤字が手紙へ伸びる。
《未送・無効》
ゆいは刃で赤字だけを受け止めた。
「後悔は消さない」
空中へ中心語が浮かぶ。
後悔
「会えなかったことも、遅れたことも消えない。だから、今度会えたら言う」
ゆいは、濡れた文字の上へルビを刻んだ。
約束
「後悔は、まだ持っている約束にもなる」
止まっていた時計が一分進んだ。

リターンレス・プラットフォームの体から線路がほどけ、未来の方向へ一本だけ伸びる。怪物は列車にならず、古いホームへ静かに戻った。
雨が止む。
駅名標には《真波》の二文字が一度だけ戻り、また薄くなった。それでも、すずは見えた形を地図へ記録した。
ゆいは便箋を買った。
まなの今の住所は分からない。最初の手紙には、宛先を書けなかった。
それでも書き始める。
《まなへ。約束を、まだ持っています。》
しおりは夜、ノートへ記した。
しおりのノート
後悔 → 約束
後悔は、消したい過去かもしれない。 でも、消したら一緒に消えてしまう人や言葉もある。 手紙はまだ途中。途中だから、まだ届くかもしれない。
ノートを閉じる直前、淡く光る読点がまた一つ、ページの隅へ落ちた。
二つの読点は、どこかへ続く足跡のように並んでいた。