
「……分かんない」
未知留は正直に答えた。
「スマホは映らないし、時計は読めないし。……でも、6時じゃないと思う」
怒られるかと思った。あるいは、泣かれるか。
どちらでもなかった。帽子屋は予約席のカップから指を離して、自分の椅子に、すとんと座った。大きな帽子のつばが、目元に影を落とした。
「そう。……そうだろうねえ」
それから、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと言った。
「あの子はね、いつも6時に来るんだ」
未知留は、立ったまま動けなくなった。
「約束なんて、しないんだよ。でも来るんだ。生垣のあそこから、髪を引っかけて、怒った顔で入ってくる。僕の帽子を見て、笑うんだ。今日のは変だって。今日のも変だって。——毎回言うんだよ、ひどいだろう?」
帽子屋は笑っていた。楽しくてたまらない、という顔で。
「うちはね、代々、時計を作ってるんだ。父さんも、じいさんも、そのまたじいさんも。歯車と、ぜんまいと、油の匂い。……でも僕は、帽子にしたんだ。帽子のほうがね、時計より、よく笑うんだよ」

「三月が茶を沸かして、ネズミが砂糖壺で寝て、あの子が笑って、それでだいたい6時なんだ。……ね、いい時間だろう?」
未知留は、気づいてしまった。
この人の話には、「だった」がない。来るんだ。笑うんだ。6時なんだ。ぜんぶ、今の話みたいに喋る。
——これ、百年前の話だ。
過去を過去形で言えない人が、過去の話をしている。それがどういうことなのか、未知留にはまだ言葉にできなかった。ただ、テーブルのそこらじゅうで蜂蜜色に灯るハートマークが、急に別のものに見えた。
四章の夜に知ったことを、覚えている。ハートマークは、幸せだった場所に残る。
この会場が、世界でいちばん濃い理由。
門、というほどのものではない。生垣の切れ目が、あるだけだ。
だが私にとって、ここは百年前から門である。
あの日も、私はここに立っていた。中には入らなかった。オルゴールと、茶器の音と、あの子の笑い声。それを生垣越しに聞きながら、私は懐中時計を確かめて、確かめて、確かめて——それから、言ったのだ。
「時間だよ」と。
たった一言。私の役目は、いつだってそれだけだった。連れてくるのも、連れて帰るのも、時間を告げるのも、私だ。
あの子は振り向いて、少しだけ、ほんの少しだけ、悲しい顔をした。それから笑って、みんなに手を振って、私と一緒に門を出た。
それが、最後の6時だ。
以来、私はこの切れ目をくぐらない。くぐれないのではない。くぐらないと、決めている。
耳を伏せるのは、怖いからではない。あのオルゴールは——あの日と、同じ曲を弾いている。
「ねえ」
未知留は、テーブルの奥の席を見た。伏せられていないカップ。磨かれた皿。まっすぐに引かれた椅子。
「あの席。……あの子の?」
帽子屋は、隠さなかった。
「うん。あの子の席」
あっさりと、まるで天気の話みたいに。三月ウサギが「駄目! その席は——」と言いかけて、帽子屋が片手を上げると、静かになった。
「いつ帰ってきてもいいようにね、取ってあるんだ。カップも温めてある。……いや」
帽子屋は、自分の言葉に、少しだけ首を傾げた。
「温めて、あった、ような……」
言葉が、また途切れた。未知留は待った。急かさなかった。
「——6時はね、一番いい時間なんだ」
やがて帽子屋は、いつもの台詞を言った。でも今度は、続きがあった。
「お迎えが、来るまでは」
お迎え。
未知留は、生垣の切れ目を振り返った。
白ウサギが、外に立っていた。夕暮れ色の薄闇の中、傘を抱えて、じっと。その耳は、ぺたりと伏せられていた。
——ああ。
そういうこと、だったんだ。
「昔ね、悪いことが起こったんだ」帽子屋の声は、静かなままだった。「あの子が来なくなって……ああ、違うな、違う。来るんだ。あの子は来る。ただ、その、間が空いてね。そのうちに、三月の耳の先が、ぼやけたんだ。朝、茶を沸かしてる三月の、耳の先が、湯気みたいに滲んで」
未知留の背中を、冷たいものが走った。輪郭の滲み。老婆の板。名前を数えて生きる国。
「だから僕は、決めたんだ」
帽子屋は、両手を広げた。歓迎のときと同じ仕草で、まったく違う意味のことを言った。
「いちばんいい6時を、取っておくことにしたんだ。誰も滲まない。茶も冷めない。あの子がいつ来ても、いちばんいい6時のままの、この店を」
それきり、会場は静かになった。オルゴールだけが、同じ曲を回っていた。
杖を握っていた。
いつ抜いたのか、自分でも覚えていない。気づいたら、胸の前にあった。
——伝言は、届いた。手は、止まった。なら、あと少し。この杖は思い出させる杖だ。ロディを一瞬戻したみたいに、この人の針も、動かせたら——
「やめたまえ!」
声は、思いがけず近くから来た。
振り向くと、白ウサギが——生垣の内側に、一歩、入っていた。
たった一歩。でも未知留には分かった。この一歩が、どれほどのものか。伏せた耳のまま、震える足で、白ウサギは百年の線を越えて、そこに立っていた。

「……杖は、忘れた者に、思い出させる道具だ」
白ウサギの声は、静かだった。慌ててもいない、跳ねてもいない。こういう声のときだけ、この兎は本音を言う。
「彼は、忘れていない。何ひとつだ。覚えたまま——覚えているからこそ、選んだのだ。君のそれは、忘れ物を届ける手だ。だが彼は、何も落としていない。……君のそれは、彼には、ただの暴力だ」
未知留の中で、焼き栗の匂いがした。
——知らないで使うのと、知ってて使うのは、別もんだからね。
——知ってて使うやつのことは、選んだって言うのさ。
おばあさん。あなたの言ってたこと、たぶん、こういうことなんだ。杖のことだけじゃ、なかったんだ。
未知留は、杖を下ろした。

「……ごめん」
「いいや」帽子屋は、笑って見ていた。「その杖、いい音がするね。歯車のいいやつと、同じ音だ」
それから、少しだけ首を傾げて、こう言った。
「でも、僕には要らないよ。僕の時計はね、壊れてるんじゃないんだ。——止めてあるんだよ」
「帰り道のこと、聞きに来たんだった」
未知留がそう言うと、帽子屋は「うん」と頷いた。この人は、時間について、白ウサギより詳しい。この国でただ一人。
「帰り道は、ないよ」
即答だった。6時だよ、と同じ速さだった。
「……ないの」
「うん。だってね、お嬢さん。行くとか帰るとかは、時間の中でやることなんだ。針が進むから、行きと帰りができる。この国の針は——」帽子屋は、飴色の懐中時計を、そっと撫でた。「もう、ほとんど進んでない。帰り道がないんじゃなくて、帰る時間が、ないんだ」
未知留は、黙った。絶望するべき言葉のはずだった。なのに、不思議と、足元が定まる感じがした。ないなら、ない。この国の住人は、みんなそこから始めている。
「ただねえ」
帽子屋は、時計職人の顔で、ひとつだけ付け足した。
「うちの家訓みたいなものだけど。——この国の針を進められるのは、時計の外の手だけだよ」
「……外の手?」
「さあ? 僕は、内側だからねえ」
それ以上は、聞いても無駄らしかった。でも未知留は、その一言を、名前の暗唱のリストの隣に、そっとしまった。
帰り際、帽子屋は予約席の隣まで送りに来た。三月ウサギが「ミルク!」と叫び、ネズミが寝言を言った。会場は、もういつもの賑やかさに戻っていた。
「もう行くの? まだ6時なのに」
一度目と、同じ台詞。同じ首の傾げ方。
「また来る」
未知留は言った。かも、は付けなかった。
帽子屋は、一拍、止まった。それから——未知留はたぶん、この瞬間を忘れない——ゆっくりと、初めての台詞を言った。
「……うん。茶を、淹れておくよ」
外に出ると、白ウサギが待っていた。もう、門の外に戻っていた。
「……入れたんだ」
「——入らないと、決めていただけだ」
「そう」未知留は、前を向いたまま言った。「……あんたの言う通りだった。杖のこと」
白ウサギは、しばらく黙って歩いた。それから、ぽつりと言った。
「私が正しかったことなど、百年で、数えるほどしかないがね」
その声があんまり静かだったから、未知留は、それ以上何も聞かなかった。
丘の上まで来たとき、背後の蜂蜜色は、もう豆粒になっていた。
オルゴールは、まだかすかに聞こえていた。同じ曲。あの日の曲。冷めない茶と、冷めていく茶の、両方の上で回り続ける曲。
——針は進めなくても、茶は冷める。
おばあさん。伝言、届けたよ。あの人、ちゃんと止まった。ちゃんと、冷めてるって言った。それでもあの人は、6時を選び直すんだと思う。でも、最後に変なこと言ってた。茶を淹れておくって。それって、ほんの少しだけ、明日の話だよね。
「——見てたよ」
声は、頭の上から降ってきた。
姿はない。笑みすら、今日は浮かべていない。声だけの猫。
「泣かなかったね、君」
「……泣く場面だった?」
「さあ? 僕なら泣いてるけど。猫だから」
未知留は立ち止まった。夜色の丘の、何もない宙を、まっすぐに見上げた。
「あんたに、聞きたいことがある」
一瞬、風の音だけがした。
それから、闇のどこかで、くすりと笑う気配がした。落ちていく未知留を最初に迎えた、あの夜と同じ気配が。
「いいよ」
チェシャ猫は言った。
「じゃあ次は——僕の話を、しようか」
(第9章 了)