
玉座の間は、満員だった。
百年、誰もいなかった広間に、今夜は全員がいる。ランタンを掲げたロディ。刻み板を降ろして袖をまくる老婆。山高帽の門番。壁際に並ぶ、何十体の兵たち。ダイナ。白ウサギ。天井のあたりに、声だけの猫。
そして、玉座の前に、女王。
「客人」
女王は、玉座に座っていなかった。立って、壁のいちばん高い場所を見上げていた。百年、毎日そうしてきた姿勢で。
「針は」
「真夜中の、髪一本手前」白ウサギが計器を掲げた。「もう、猶予はない」
「そうかい」
女王は、未知留を見た。崖みたいな無表情の、目のふちだけが、静かだった。
「なら——開けておやり」
壁の高みで、あの札が待っていた。
未知留は、歩いた。階段を上り、回廊を渡り、あの日——こちらの時間では数か月前——過負荷で膝をついた、その場所に立った。
とく、とく、と、札が鳴っている。
とく、とく、と、自分の胸が鳴っている。
同じ拍だった。最初から、ずっと、同じ拍だった。
未知留は、手を伸ばした。
指先が、札に触れた。

——過負荷は、来なかった。
吸い出される感覚も、膝の震えも、何も。ただ、ふたつの鼓動が、ことり、と重なっただけだった。空っぽの器は、もう空っぽではない。満ちた器と、信じる心だけの器。同じ高さの水面が、静かに繋がった。
世界が、白くなった。
白い場所に、女の子が立っていた。
淡い輪郭。癖のある長い髪。絵の中の続きみたいな女の子。百年、この国を灯し続けて、擦り切れるまで薄くなった——それでも、立っていた。
女の子は、未知留を見た。
未知留も、女の子を見た。
信じるのをやめた子と、信じたまま置き去りにされた子。鏡合わせの、ふたり。
「……迎えに、来たよ」
(むかえに、きたよ)
こだまが返る。でも、もう知っている。これはこだまじゃない。精一杯の、返事だ。
未知留は、息を吸った。百年ぶんの言葉を、言うために。届け物は、慣れている。伝言も、名前も、栗も、帽子も、時計も、届けてきた。最後の届け物は、たった一言だった。
「あなたは、確かに、いた」
「あなたがいたから、この国はあった。あなたが信じたから、お茶会は6時で、薔薇は赤くて、女王様は名前を聞いてくれた。夢なんかじゃない。なかったことになんて、させない。——あなたは、確かに、いたんだよ」
女の子の目が、大きく開いた。
長い、長い沈黙だった。百年ぶんの沈黙だった。
それから、女の子は——こだまではない声で、初めて、自分の言葉を言った。
「——待ってた」
その瞬間。
こち、と。
白ウサギの懐中時計が——逆に、鳴った。
白が晴れると、玉座の間は光っていた。
壁一面の札が、端から端まで、呼吸のように明滅している。真夜中の手前で震えていた針は——いま、ゆっくりと、真夜中から遠ざかっていた。こち、こち、と、生まれて初めて聞く音を立てて。
「……逆に、回ってる」
「ああ」白ウサギの声が、震えていた。「巻き戻っているのではない。増えているのだ。残り時間が。……国が、また信じられ始めている」
「読み上げ係!」ロディが叫んだ。「出番だ!」
「言われなくたって、やってるよ!」
老婆が、刻み板の前に仁王立ちして、端から、名前を読み上げ始めた。
「——ロディ! あんたはもう起きてるね。次! 仕立屋のマーサ! パン屋のトム! 楽師の……ええと、この彫りは読みにくいね、ヴィオラ!」
呼ばれた名前の札が、壁で、ぽん、と開いた。
光の粒がほどけて、人の形になる。仕立屋のおばさんが、針山を握ったまま目を白黒させて現れる。パン屋の大男が、粉だらけの前掛けのまま現れる。楽師の娘が、現れた瞬間に自分の楽器を探して回る。

「順番! 順番だよ! 慌てるんじゃない!」
老婆の声が、名前を呼ぶ。呼ばれた者から、帰ってくる。名前を呼ばれると、人は、ここに居ていいんだと思う——門番の言ったとおりのことが、五十二枚ぶん、次々に起こっていった。
ハートの5の侍女が戻って、真っ先に女王の傍らに膝をついた。
ダイヤの6の灯り守が戻って、窓の外——街道に、ぽつ、ぽつ、と灯りが点きはじめた。
ダイヤの3の絵の具屋の少年が戻って、開いた窓から入ってきた風に、はっと顔を上げた。風の中に、色が戻り始めていた。城壁の「日に晒されたポスターの赤」が、下から、染み込むように赤を取り戻していく。少年は、それを指差して、口をぱくぱくさせて、それから——言った。
「赤、だ」
言えた。
「赤だ! なあ、みんな、見ろよ、赤だ! 陛下の園の色だ! おれ、言えた、赤——」
少年は、それきり泣いてしまって、色の名前はしばらくそれ以上増えなかった。
色は、増え続けた。絨毯の赤。旗の金。窓の外の丘の、忘れられていた緑。そして——
「みゃあ」
足元で、鳴き声がした。
ダイナだった。ダイナの黒い毛から、黒が、抜けていた。煤を払うように、指の間から砂がこぼれるように、黒がほどけて散って——その下から、白が現れた。ふさふさの、白い毛。耳と尻尾の先に、淡いミントの差し毛。
白い猫は、ぶるりと胴を震わせて、百年ぶんの黒を払い落とすと、まっすぐに、玉座の間の中央へ走った。
淡い輪郭の女の子が——札から出てきた、あの子の忘れ物が——両手を広げて、それを受け止めた。
そのとき、広間のざわめきの中を、ひとつの言葉が渡っていくのが聞こえた。国の、名前だった。誰かが思い出して、口にして、隣の誰かがそれを繰り返して。とても古くて、やわらかい響きの名前だった。鐘の音みたいに丘を渡っていくその名前を、未知留は聞いた。聞いたけれど——それはこの国の人たちのものだから、胸の中だけに、しまった。
「……ああ、そうだ。そうだった」
隣で、老婆が、ぽつりと言った。
刻み板の隅の、小さな「は」の一文字を、皺だらけの指で撫でて。
「……はしばみ」
老婆の針が、ゆっくりと寝た。笑ったのだ。
「あたしの名前は、はしばみだ。……ふん。いい名だ」
「——静粛に」
女王の声が、広間に渡った。
ざわめきが、凪いだ。五十二人の住人と、一人の客人と、一羽の兎と、一匹の白い猫が、玉座の前の女王を見た。
女王は、玉座の前に立っていた。帯から古い扇を抜いて、開かずに、手の中に握って。
「百年、私はこの国の火の番人だった。恐怖で火を焚き、みんなのハートを預かって、憎まれ役をやってきた。……その役目は、いま終わった」
女王は、息を吸った。
「よって、最後の命令を下す」
低く、乾いた、床から響く声で。百年、この国を凍らせて守ってきた、あの言葉の形で。
「——ハートの女王の首を、はねよ」
誰も、動かなかった。
槍を持つ兵は、もういない。手のひらをかざす者も、いない。広間にいるのは、パン屋と、仕立屋と、楽師と、灯り守と、迷子係と——ただの、国の人たちだけだった。
命令は、初めて、ただの言葉になって、広間の高い天井に、静かに消えた。
沈黙を破ったのは、ロディだった。
若い迷子係は、ランタンを提げたまま、まっすぐ女王の前まで歩いていって——手を、差し出した。
「陛下。迷子は、こっちです」
「…………」
「灯りの下に集まるんですよ。そうすりゃ——もう見つかってますけどね、陛下は」
女王は、差し出された手を、長いこと見ていた。
それから、淡い輪郭の女の子が、ダイナを抱いたまま、女王の前に立った。百年前、名前を貰えなかった女の子が。
「あのね」
女の子は、言った。自分の言葉は、まだ二言目だった。
「——お名前を、聞いても、いい?」
未知留は、女王の顔を見ていた。
崖みたいな無表情が、ゆっくりと、ほどけていくのを見た。目の下の赤い化粧——泣いた痕を隠すための、百年の化粧の上を、隠すはずのものが、あとから追いかけていくのを見た。
女王は、身を屈めて、女の子の耳元で、何かを言った。
その名前は、広間のざわめきと、こち、こち、と増えていく時間の音に紛れて、未知留には聞こえなかった。聞こえなくて、いいのだと思った。名前は、呼ぶ人たちのものだ。
ただ、広間のいちばん遠くで——門番のクラブのJが、灰色の山高帽を、深く、深く、取るのが見えた。
それから、女王は身を起こして——歌った。
低く、途切れ途切れの、古い子守唄だった。三日三晩の扉の内側で止まったきりの歌。侍女が最初に気づいて目を伏せ、老婆が読み上げの声を休め、広間がすこしずつ静かになって、歌だけが残った。
今度は、最後まで歌えた。
そのとき。
未知留のポケットの中で、こち、と小さな音がした。
飴色の懐中時計。百年、6時で止まっていた針が——
動いていた。
6時、1分。
お茶会の会場は、蜂蜜色のままだった。
ただ、その蜂蜜色の向こうに、今夜は星空があった。凍った薄暮ではない、ちゃんと更けていく夜と、昇ってくる月が。
「——おや」
帽子屋は、テーブルの真ん中で、ポットを持ったまま固まっていた。
生垣の切れ目から入ってきた一行を、順番に見た。未知留。白ウサギ。白い猫。そして——淡い輪郭の、女の子。
女の子は、まっすぐに、テーブルのいちばん奥へ歩いた。
伏せられていないカップ。磨かれた皿。まっすぐに引かれた椅子。百年、6時のまま整えられ続けた、あの席へ。
椅子を引いて、ちょこんと、座った。
「おじゃまします」
帽子屋は、ポットを置いた。
帽子を、取った。もじゃもじゃの赤茶の髪が、ぼん、と広がった。それから彼は、百年ぶんの歓迎の言葉を全部、たった四文字にまとめて言った。
「——おかえり」

「……ミルク」テーブルの端で、三月ウサギが、もじもじと言った。台本にない、初めての小さな声で。「……お茶、淹れなおすね。冷めてるから」
「ああ、いいんだ、三月」
帽子屋は、笑って、自分の分の冷めた茶を掲げた。
「冷めた茶ってのはね。——時間が動いてる味がするんだよ」
未知留は、飴色の時計を返した。帽子屋はそれを受け取って、6時1分の針を見て、長いこと見て、ベストのポケットに、蓋を開けたまま仕舞った。
「ねえ、お嬢さん。いま、本当は、何時だい?」
いつかの質問を、帽子屋はもう一度した。今度は未知留が答える前に、自分の時計を、とん、と指で叩いた。
「——6時1分、だ」
会場の空気が、ほどけた。そのほどけた闇の中から、青い縞が、糸になって集まってきた。今度は、ゆっくりだった。急がなかった。端から端まで、百年ぶん散らばったものが、全部、一か所に。
テーブルの空いた椅子の上に、青い縞猫が、完全な形で、現れた。
「……戻れたんだ」
「うん」猫は、自分の前脚をしげしげと見た。「僕もちょっと、驚いてる」
「賭けは?」
「僕の勝ち」
チェシャ猫は、にやりと笑った。それから、椅子の上で丸くなって、目を細めた。
「配当は——いま、貰った」
未知留は、手を伸ばして、もう一度、撫でた。ふわふわだった。ちゃんと、あたたかかった。なかったことに、ならなかった。
最後に、白ウサギが、女の子の前に立った。
小さな体で、背筋を伸ばして。頭のゴーグルを外して、どこからか取り出した灰色の山高帽をかぶり直して——礼装だった。審理の日の、いちばん正式な帽子。
それを、ゆっくりと、取った。
「——時間だよ」
百年前と、同じ言葉。門の外で、懐中時計を確かめて、確かめて、言った言葉。夢だったと思いたまえ、に続いてしまった言葉。百年、練習してきた、その続き。
「そして——おかえり」
女の子は、笑った。
世界がひとつ灯るような、笑い方だった。
「ただいまー」
「おかえりー。手洗ってー。今日カレーだよ」
台所から、いつもの声がした。置き手紙は、テーブルの上で、書いたときのままだった。晩ごはんに、間に合った。ぜんぶ終わらせて、ぜんぶうまくいって、それでもカレーの匂いの時間に帰ってこられる。いい比率の世界たちだと、心から思う。
自分の部屋で、未知留は、ふと窓の外を見た。
街灯の下。ベンチの上。塀の上。視界の端——
白いものは、どこにもいなかった。
正面を向いても、いなかった。
「……見えなく、なったんだね」
窓を開けて、夕方の空気に言うと、どこか遠くから、聞き慣れた声だけが返ってきた。
「——ああ。とうとう、見えなくなった」
声は、少し笑っていた。
「君の器は、もう空っぽではないのだ。夢を信じる者に、私は見えない。……それが、私たちの勝利の形だとも。未知留くん」
「もう、会えない?」
「こちらの話——と言いたいところだがね」
声は、いつもの調子で、いつもより優しかった。
「会えるとも。君がいつか、誰かの視界の端の白に気づいてやれる大人になった頃に。……それまで、私は忙しい。次の迷子を、探さねばならんからね」
それきり、声はしなかった。
未知留は、しばらく窓辺に立っていた。泣かなかった。これは、失くしたんじゃない。満ちたのだ。
机の上には、二日後の校外学習のしおりがあった。班員の欄に、ひなたの字で名前が書いてある。
浅井ひなた
その隣の空欄に、未知留は自分の名前を書いた。
七瀬未知留
並んだ二つの名前を、しばらく眺めた。翌日の教室で、しおりを見たひなたは、にっと笑って言うのだ——「ね、七瀬さんさ。……みちるって呼んでいい?」——「うん」と、未知留は答える。それはもう少しだけ、未来の話。
未知留は、机の引き出しから、白紙のままの進路希望調査を出した。
しばらくペンを持ったまま、窓の外の、暮れていく普通の空を見て——それから、書いた。
何を書いたかは、まだ、誰にも見せない。
書き終えて、顔を上げると、机の上の写真立ての中で、幼い自分が、クレヨンの絵を掲げて笑っていた。
「……ただいま」
未知留は、絵の中の三人と、写真の中の自分に言った。
遠い街の、日当たりのいい窓辺に、年老いた女性が座っている。
膝の上では、白い猫が丸くなっている。ふさふさの毛。耳と尻尾の先に、淡いミント色の差し毛。首には、水色と白のストライプのリボン。もうずいぶん長く一緒にいるのに、この猫は不思議と、歳を取らない。
女性は、猫の背を撫でながら、窓の外を見るともなく見て、ふと、言った。
「ダイナ。今日はね、変な夢を見たの」
猫が、耳だけをこちらに向ける。
「お茶会の夢。……懐かしい人たちが、たくさんいてね。みんなで、わたしの席を、ずっと取っておいてくれていたの。おかしいでしょう。夢のくせに——お茶が、あったかかったのよ」
女性は、ふふ、と笑って、目を閉じた。

膝の上で、白い猫が——ふるえるほど懐かしい声で、一度だけ、鳴いた。
窓の外を、夕方の風が通っていく。庭の垣根の、ハシバミの葉が揺れて、その足元を、白い小さな影が——見えたか、見えなかったか。
(第24章 了)
(全24章・完)