
「答え合わせを、しようか」
祠の夜。猫の声は、いつになく丁寧に始まった。
「白薔薇の庭で、僕は言ったね。——あれは、君の記憶じゃない、って」
「……うん。ずっと引っかかってた」
「じゃあ、順番に行こう。君が、あの絵を描いたのは、いくつのとき?」
「……五つか、六つ」
「その頃の君は、どんな子だった?」
未知留は、少し考えた。考えて、あまり思い出したくないことに突き当たった。
引っ越しの多い家だった。友達ができた頃に、離れた。約束は、だいたい果たされる前に消えた。サンタクロースの正体は、同級生より二年早く知った。
「……期待するのを、やめ始めた頃」
「そう。器が、空き始めた頃だ」
猫の声は、静かだった。
「兎が教えたでしょ。空の器は、響く。……君の器はね、五つか六つのあの頃、この世界で最初に、からんと鳴ったんだ。そして——同じ音で鳴ってる札が、遠くに、ひとつあった」
城のいちばん高いところの、あの札。
「空と空は、響き合う。距離なんて関係ない。世界の壁も、たぶん関係ない。……あの札から、君に、届いたんだよ。あの子がいちばん幸せだった時間の画が。いちばんいい6時の画が」
ウサギと、帽子の男と、にっこり笑った猫が、長いテーブルでお茶を飲んでいる画。
「君はそれを受け取って——クレヨンで、描いた」
「…………」
「あの絵はね、未知留」
猫が、初めて、名前だけで呼んだ。
「君が描いた、返事だよ。君はずっと前から、あの子と文通してたんだ。——切手のいらない手紙でね」
未知留は、膝の上のこぶしを見た。
五歳の私。画用紙に夢中でクレヨンを走らせていた私。ママ、みてみて、と笑っていた私。あれは、期待するのをやめ始めた子どもが、世界のどこかから届いた「いちばん幸せな時間」に、精一杯の返事を書いていた姿だったのだ。
「……いい返事だった」
猫の声が、笑みの形に緩んだ。
「冷蔵庫に貼るには、上出来すぎるくらい」

「七瀬さんさ」
翌日の下校路で、ひなたが言った。
「来週の校外学習、班いっしょにならない?」
「うん。なる」
即答だった。
自分でも、驚いた。来週。未来の約束。考えるより先に、頷いていた。
「お、はやい」ひなたも少し驚いた顔をして、それから、にっと笑った。「じゃ、決まりね。お弁当、隣で食べよ」
「……うん」
隣を歩くひなたの、癖のある前髪が、夕陽で山吹色に透けた。
一年前の私なら、この誘いに、なんて答えていただろう。たぶん「どうでもいいけど」の顔をして、曖昧に頷いて、当日は理由をつけて一人でいた。期待しなければ、ドタキャンは痛くない。ずっと、そうやって生きてきた。
いまは、来週が楽しみだ。
楽しみなものが、こっちにもあっちにも増えていって、器はひとつしかなくて——それでも。
「ひなた、あのさ」
「ん?」
「……ううん。また明日」
「なにそれー。また明日!」
失いたくないものの名前は、夜の暗唱で数えればいい。いまは、隣を歩く時間だった。
夜。
机の上の杖は、今日も明滅していた。とく、とく。未知留の鼓動と、同じ拍で。
未知留は、椅子に座り直して、杖を両手で持ち上げた。
胸に、当てた。
とく、とく。
とく、とく。
——ふたつの拍が、重なった。
重なった瞬間、世界の音が、すこし遠くなった。教室の水の膜とは違う。もっと静かで、もっと近い場所に、耳が開いた感じだった。
「……聞こえてる?」
言ってみた。馬鹿みたいだと思いながら。
(きこえてる?)
心臓が、跳ねた。
声だった。声、としか言いようのないものだった。耳からではなく、杖から、胸から、直接届く——幼い、女の子の声。
私の言葉と、同じ言葉。でも、エコーじゃなかった。私の「聞こえてる?」は問いで、返ってきた(きこえてる?)は——希望の形をしていた。聞こえていてほしい、の形をしていた。
「私の声、分かる?」
(わかる?)
分かる、と言いたいのだ。反復の形でしか、言えないだけで。
未知留は、深呼吸をした。確かめなければいけないことが、ひとつあった。ひどい実験だと分かっていた。それでも、確かめておきたかった。この声が、鏡なのか——誰かなのか。
「……『助けて』」
言ってほしい言葉を、先に言った。
沈黙が、長かった。
杖の明滅が、一度、二度、三度。ためらうみたいに、拍を刻んで。
(……たすけて)
未知留は、泣かなかった。
泣く代わりに、言った。ゆっくり、はっきり、届くように。
「行くよ。開けに行く。——あんたを、迎えに行く」
今度は、沈黙はなかった。
(むかえにいく)
反復だった。反復のはずだった。でもそれは、もう鏡ではなかった。約束の、復唱だった。

玉座の間。
壁のいちばん高い場所で、札が——これまでで最も強く、最も長く、脈打った。一度ではなかった。二度、三度、鼓動はもう、鳴りやまなかった。
ダイナは、札の真下から、動かなかった。金色の目が、まっすぐに上を見ていた。

女王が、玉座から立った。
古い扇を、音もなく閉じて——帯に、差した。
「……近いね」
それだけ言って、女王は壁を見上げた。百年、毎日そうしてきた姿勢で。けれど今夜は、どこかが違った。待つ者の背中ではなく、迎える者の背中だった。
「連れてって」
祠に着くなり、未知留は言った。
「今度は、開けに行く。……声、聞いたの。届いた。約束した」
白ウサギは、驚かなかった。
ゆっくり頷いて、「そうか」と言った。それから、「ついに、か」と言い直した。百年ぶんの重さと、ほんの少しの震えが、その四文字に入っていた。
「準備がいる。それから、陛下に話を通す。開けるなら、あの壁の前だ。……ああ、それと」
白ウサギは、懐中時計を取り出した。
「急ぐ理由が、もうひとつ、増えた」
蓋が、開いた。
数字のない文字盤。星空のような粒。真夜中の手前の、針。
その針が——
見ている間に、動いた。
こく、と。ほんのわずか。でも、確かに。百年かけて指一本ぶんを進んだ針が、いま、目に見える速さで。
「……動いてる」
「加速、している」
白ウサギの声は、静かだった。静かであることに、全部の力を使っている声だった。
「真夜中が——向こうから、歩き出した」
(第22章 了)