「いいか俺が合図を…」の声を銃声が断つ。塹壕に構えていたケンジ ―――彼とは輸送艦以来の戦友だった――― が倒れ、強烈な怒りで視界が狭くなった刹那、 爽やかな香りとキレのある味わいが口一杯に広がり、グッとくる力強い飲みごたえに意識を奪われる。
「爽快感が進化! 感杯《生》、リニューアル!」
肩の奥に痛みを感じながら体を起こす。「広告付帯睡眠薬」。復員兵に碌な援助も出せない敗戦国政府と、彼らの適応障害による不眠が生み出した忌々しい市場の産物だ。国営アパートの一室に取り付けた悪趣味なカーテンを開ける。俺が買ったものだが、あの夢広告の影響だろう。精子バンクで稼げる高学歴復員と違い、俺が売れるのは夢くらいのものだった。
枕元の端末に、昨夜の広告が並んでいた。ビール、カーテン、関節の痛み止め。最後に、薬の自己負担額が表示されている。昨日までは無料だった。
〈初回支援期間が終了しました。お買い物で、これからも快眠を。〉
ビールを一箱買えば、薬が七日分もらえる。七日分の食費と比べ、端末を伏せた。
俺は酒を飲まない。肝臓の検査で止められたのだ。広告の設定にも登録してある。だから酒の味を口に入れてくるのかもしれなかった。夢なら数値は悪くならない。
洗面台で口をすすいでも、あの味は残っていた。
ケンジが倒れたのは、一年と八か月前だ。
停戦後、戦死者の家族に連絡先を渡していいかと軍に訊かれ、いいと答えた。駄目だという理由を考えるほうが面倒だった。二週間後に、ケンジの母親から電話が来た。
息子の最期の様子を知りたい、という話だった。
銃弾に当たってすぐでした。苦しまなかったと思います。そう答えると、少し黙ってから、何か言っていませんでしたかと訊かれた。
そのとき、俺の肩を貫いた弾が、まだ身体の中に残っているような気がした。傷は塞がっているのに、受話器を持っているだけで、肩の奥がひどく痛んだ。
具合が悪いので、またこちらから電話します。
それきりだった。
電話番号を消せば済むのだが、消す操作をするには、その名前を一度選ばなくてはいけない。
翌日、俺は薬の支給窓口に行った。
待合室では、隻腕の男が端末に向かって、俺のほうのない腕が痛むんだと繰り返していた。端末は筋肉を揉みほぐす器具を勧めていた。
俺の番になり、酒が飲めないこと、ほかの商品も買えないことを伝えると、窓口の女は首を傾げずに済む程度の同情を示した。
「広告は、ご覧になるだけでは薬代になりませんので」
「見たくて見てるわけじゃない」
「はい。皆さんそうおっしゃいます」
彼女は画面を二つ進めた。
「素材提供のほうなら、審査を受けられます。採用されると、お買い物をしなくてもお薬が出ますよ」
「素材?」
「夢の素材です。詳しい担当におつなぎしますか」
その晩は薬を飲まなかった。
ベッドに横たわると、天井の染みが増えて見えた。目を閉じるたびに、ケンジがこちらへ顔を向ける。俺はその先を知っているので、目を開ける。
明け方、ようやく眠りかけた。銃声がして、口を開けた。何も流れ込んでこなかった。
ケンジの顎が塹壕の縁にぶつかる音まで聞こえた。
気がつくと床に這いつくばり、片手で耳を塞いでいた。もう片方の腕は上がらなかった。
担当との面談は午後だった。俺は三十分前から、端末の前に座っていた。
「まず誤解を解いておきたいのですが、戦場の映像をそのまま広告に使うわけではありません」
画面の男は言った。背後の壁には、俺のカーテンと同じ柄が細長く飾られていた。
「銃や血は、好まれませんからね。ただ、その中にも使える部分はあるんです」
男が指を動かすと、映像が現れた。
ケンジだった。
軍服は着ていなかった。白いシャツ姿で、何かを受け取ろうとしている。見えないものをつまみ損ね、笑う。上の歯が一本だけ、少し内側に向いていた。
「……そんな夢は見てない」
「完成した場面を抜き出す技術ではないんです。顔や声、その人が笑うときにあなたが感じるもの。そういう断片から組み立てています。普段の広告でも、背景のなじませ方には同じ技術を使っています」
画面のケンジは、もう一度同じものをつかみ損ねた。
輸送艦の食堂で、俺たちはよく配給の豆を投げてよこした。ケンジは受け取るのが下手で、床に落ちたやつは拾わなかった。勿体ないと言うと、帰ったら好きなだけ食えると答えた。
「消してくれ」
男は映像を止めた。
「失礼しました。ですが、こうした親密さは、合成だけではなかなか出せません。形を似せても、受け手に信用してもらえない。あなたの夢には、その土台があります」
「あいつにビールを売らせるのか」
「例えば、そういう使い方もできます」
「死んだ人間だぞ」
「お取り引きするのは、あなたが夢の中で作った人物です。実在の方のお名前や経歴は使用しません。もちろん、その方ご本人だと宣伝することもありません」
「同じ顔だ」
「あなたにはそう見えるでしょうね」
男は、少し声を落とした。
「それだけ鮮明に覚えていらっしゃるということです」
褒められたのだと気づくまで、時間がかかった。
報酬は、一年間の治療費だった。広告のない薬と、月に二度の診療。現金は出ない。夢を取り出すための薬も、今後は飲む必要がない。一度取った素材は、何度でも使えるからだという。
契約書の上では、俺が素材の権利者だった。
〈提供された人物像について、利用を許諾します。〉
その下に、四角い空欄があった。
母親の電話番号を開いた。呼び出すボタンの上に指を置いたが、押せなかった。何と言えばいいのだろう。息子さんを売ってもいいですか。俺が眠るために。
契約の画面に戻った。
こっちの四角には、触れるだけでよかった。
三日後、白い錠剤が届いた。前のものと、大きさも匂いも変わらなかった。
俺は飲んで、横になった。
目が覚めると朝だった。
途中に何があったのか、思い出せなかった。唾を飲んでも、自分の口の味しかしない。時計を見て、もう一度見た。八時間がなくなっていた。
起き上がっても、肩は痛んだ。それが少し意外だった。
窓を開け、流しに溜めていた食器を洗った。二枚目の皿を洗っていると、腹が鳴った。朝に腹が減ったのは、復員してから初めてかもしれなかった。
その週、俺は仕事を探しに行った。
窓口までの道にパン屋があった。いつもは通り過ぎる店だったが、焼きたてと書かれた小さなパンを一つ買った。広告で味わったことのないパンだった。熱すぎて、しばらく袋の口を開けて持ち歩いた。
広告の配信開始通知が来たのは、それから十日ほどしてからだった。
〈あなたの思い出が、誰かの笑顔につながりました。〉
通知を消そうとして、その下の小さな映像に指が触れた。
ケンジが、缶を二本持って立っていた。
「よく帰ってきたな」
一本をこちらへ投げる。夢の中では、見る側の手がそれを受け取るのだろう。俺の端末では、缶は画面の外に落ちた。
「あとは俺に任せて、ひと息つけよ」
笑い方まで同じだった。左の口角だけが、ほんの少し先に上がる。
ケンジにそんなことを言われた覚えはない。あいつは俺より年下で、たいていは、こちらが言ったことに頷いていた。豆のときもそうだった。帰ったら好きなだけ食えるさと俺が言い、あいつが同じことを繰り返したのかもしれない。
どちらだったのか、急にわからなくなった。
俺は映像を止め、机の上の紙に、ケンジについて覚えていることを書き出した。
豆をつかむのが下手だった。靴下を裏返して干した。カードを切るときに、必ず一枚落とした。歯が一本曲がっていた。
言葉を書こうとすると、缶を差し出す声が先に出てきた。
俺は担当を呼び出した。
「採用を取り消したい」
「契約の解除は可能ですが、それだけでは、すでに制作された広告の利用は止まりません。その点は契約書にも」
「治療費を返せばいいのか」
「配信を止めるには、広告主から利用権を買い戻す必要があります」
男は金額を送ってきた。軍にいた頃の給料の、二十年分だった。
俺が見ていた広告だけではなかった。いくつもの会社が、別々の場面を買っていた。画面には、まだ知らないケンジが小さく並んでいた。作業着で頷くケンジ。子どものそばにしゃがむケンジ。食卓の椅子を引くケンジ。
俺より長く働いているように見えた。
「あいつの母親が見たらどうなる」
「除外したい配信先があれば、申請できます」
俺は母親の電話番号を貼りつけた。自分の番号も加えた。
受付済みの表示が出たあとで、ひどくほっとしてしまった。
俺はあいつを売った。そのことまで、見なくて済ませようとしていた。
その晩も薬は飲んだ。
飲まないで苦しんだところで、ケンジに何かが返るわけではない。そう考えながら、錠剤を押し出した。どこかで聞いたような言い方だった。
翌朝、俺は机の紙を裏返した。
靴下や豆のことではなく、最後の日のことを書こうと思った。
〈俺が合図を〉
そこまで書いて、ペンを置いた。
あれは俺の声だった。
左手の瓦礫に、敵の射手がいた。正面を撃たせれば、その隙に後ろの溝へ抜けられると思った。俺はケンジに射撃を命じ、自分は低く身をかがめた。
言い終わる前に弾が来た。ケンジはまだ塹壕の中にいた。次の一発で肩をやられ、俺は這って溝に逃げた。
戦闘記録には、彼が合図を待たずに応射したと書いた。
そう見えたのだ、という説明を、俺は何度もした。相手は必ず、あの状況では仕方がなかった、と言った。
手のことは話さなかった。
言い終えるより先に、俺は手を上げていた。ケンジがそれを見た。頷いて、銃床を肩に押し当てた。
白い錠剤を飲んでも、その手は思い出せた。夢に見なくなっただけだった。
俺は電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴り、途中で切ろうと思った。そのとき相手が出た。
名乗ると、ケンジの母親は、はい、とだけ言った。
「前に、こちらからかけると言ったままになっていました」
「ええ」
その次の言葉は、向こうからは来なかった。
「記録のことで、間違っているところがあります」
俺は机の紙を見た。何も続いていなかったので、見ても役に立たなかった。
「ケンジは、俺の指示を待っていました。待たなかったと書いたのは、俺です」
相手の息が聞こえた。
「俺が合図を出したんです」
言ってしまうと、それは短いことだった。そのあとを長くするために、敵の位置や、溝までの距離や、あのとき俺が知らなかったことを説明したくなった。
俺は口を閉じた。
「あの子が勝手なことをしたんじゃ、なかったんですね」
「はい」
「私にだけ言うんですか」
「……記録も訂正します」
「訂正したものを送ってください」
俺は、わかりましたと答えた。
それから、薬のことを話した。契約のことも、ケンジに似た男が広告に出ていることも話した。途中で何度も、長い沈黙があった。
「息子じゃないんですね」
「俺の夢から作ったもので、会社はそう言っています」
「会社がどう言っているかではなくて」
俺は受話器を持ち直した。
「ケンジが言っていないことを、言わせています」
向こうで何かを置く音がした。
「見せないでください」
「はい」
「もう一度電話をもらって、こんな話になるとは思いませんでした」
俺は謝った。何度も謝ろうとすると、相手はそれを遮った。
「前にお訊きしたことには、答えてもらっていません」
窓の外で、荷物を運ぶ車の警笛が鳴った。俺は肩をすくめ、机の角をつかんだ。母親は待っていた。
「撃たれたあとには、何も言いませんでした」
「その前は」
ケンジはこちらを見た。俺が手を上げると、小さく頷いた。
「うん、と」
受話器の向こうが静かになった。
「軍隊でも、うん、だったんですね」
俺は返事をしようとして、できなかった。顎に力が入り、鼻の奥が痛くなった。母親は、仕方がないとも、気にするなとも言わなかった。
口に流れ込んできたものは、いつまでも塩辛かった。
<了>