
深夜の七森中学校は、昼間とは別の生き物みたいに静かだった。
廊下の時計は、午前二時十三分で止まっている。
その針の下を、黒いしずくがひとつ、落ちた。床に触れたしずくは弾けずに、そのまま小さな猫の足跡になった。ひとつ、ふたつ、みっつ。足跡は誰もいない教室へと続いていく。
教室の黒板には、白いチョークの文字があった。
――わすれないで。
黒板の前に、黒い猫のような小さな影がうずくまっている。影は震えていた。怖がらせようとしているのではなく、ただ、怖がっているように見えた。
「にゃあ……」
鳴き声は、夜の教室に吸い込まれて消えた。

窓の外に、白い仮面が浮かんだ。
白いコートを着た男が、札のような薄い端末を掲げて、教室の中の影を見ている。仮面の奥の目は、動物を見る目でも、人を見る目でもなかった。
「対象を確認。感情種ノイズ体。危険度B」
端末が、小さく音を立てた。
「白紙化準備」
黒板の文字が、増えていく。わすれないで。わすれないで。わすれないで。
教室が、黒い影に沈んでいく。机も椅子も、水面に浮いた木片みたいにゆっくりとゆがんだ。影の中心で、黒猫がこちらを見上げている。片目の下に、星のかたちをした涙の模様があった。
猫の足元から、教室いっぱいに巨大な影が広がっていた。けれど、本体はあまりにも小さかった。
「名前を……呼んで」
誰かが、そう言った。
「忘れられない、思い出」
国語の先生が黒板に書いた作文のテーマを、空野ハルは声に出して読んだ。
昼の教室は騒がしくて、明るくて、昨夜の出来事なんて何ひとつ残っていなかった。もっとも、ハルは昨夜のことを何も知らない。知らないまま、原稿用紙を前にして固まっていた。
「ハル、まだ一行も書いてねえじゃん」
隣の席の森田レンが、原稿用紙を覗き込んでくる。
「あるわ。ありすぎて選べないだけだし」
ハルは笑って言い返した。レンも笑った。それで会話は終わって、ハルの手元にはやっぱり、白い原稿用紙だけが残った。
あるはずなのに。
どうしても、思い出せないことがある。
鉛筆の先が、紙の上でぴくりとも動かなかった。
放課後、ハルは廊下の掲示板の前で足を止めた。
昔の学校行事の写真が貼ってある。その中に、一枚だけ古い写真があった。幼稚園くらいの小さな子どもたちが並んでいて、その端に、幼いハルがいる。
ハルは、誰かと手をつないでいた。
その誰かの顔は、白く消えていた。写真が古びて色が抜けたのとは違う。人のかたちだけが、真っ白な光に塗りつぶされている。

「……誰だっけ」
声に出してみても、答えは出てこなかった。胸の奥に、小さな穴が開いているみたいだった。そこに何があったのか、ハルは思い出せない。
その時。
「にゃあ」
猫の声がした。振り返っても、廊下には誰もいない。ただ、床に黒い足跡が点々と続いていた。
「今、猫の声しなかった?」
誰にともなく聞いてみたが、答える者はいなかった。足跡は、夕方の光の中で、じわりと薄れて消えた。
家に帰って鞄を開けて、ハルは「あ」と声を出した。
作文ノートがない。
机の上には、先生から渡された原稿用紙が一枚。忘れられない思い出、と印刷された枠の中は、やっぱり白紙のままだ。
「忘れられない思い出。なのに、忘れてる」
ハルは椅子に座り込んで、天井を見た。掲示板の写真が頭に浮かぶ。白く消えた誰か。つないだ手。そして、猫の声。
放っておけばいい。明日取りに行けばいい。
そう思うのに、体は勝手に立ち上がっていた。
「ノート取るだけ。ノート取ったらすぐ帰る」
自分に言い聞かせながら、ハルはパーカーを羽織って、夜の街に出た。
夜の七森中学校は、通用口が少しだけ開いていた。
昼間の学校とはまるで違う匂いがする。冷えた空気と、チョークと、雨上がりの土の匂い。廊下の時計を見上げて、ハルは眉をひそめた。
二時十三分。
昼に通った時も、この時計は止まっていた気がする。
床には、黒い猫の足跡が続いていた。
「昼のやつ……」
足跡は、ハルの教室へ続いていた。
教室の黒板には、白い文字があった。
――わすれないで。
その前に、小さな黒猫がいた。
猫はハルを見るなり逃げようとした。けれど、その足に黒い霧のようなものがまとわりついて、動けないでいる。逃げようとするたび、猫の輪郭が影のようににじんだ。
「猫……?」
ハルは一歩、近づいた。猫がびくりと震える。
「おい、大丈夫か?」
猫は答えない。代わりに、教室のどこからか声がした。
「名前を……呼んで」
ハルは息を止めた。
「……今、しゃべった?」
猫が、ハルを見ている。片目の下に、星のかたちの涙模様。その目は、怯えていて、それでも何かを必死に伝えようとしていた。
聞こえる。この猫の声が、ハルには聞こえる。
「聞こえる。お前、誰かを探してるのか?」
そう聞いた瞬間、教室の床が黒い水面に変わった。
水面に、雨の帰り道が映っていた。
街灯。水たまり。黒い傘。小さな手が、もっと小さな手を握っている。幼いハルと、その隣に、真っ白な光でできた子ども。
「なんだよ、これ……」
水面の向こうから、声が聞こえた。
「また明日」
「うん。絶対だよ」
それは幼い子どもの声で、ハルにはその片方に、聞き覚えがあった。
「今の……俺?」
答えの代わりに、窓が白く光った。
白い仮面の男が、割れた窓から教室に入ってきた。白いコート。札のような端末。昼間の学校では絶対に見ない類いの人間だった。
「記憶庁です」
男は淡々と言って、黒猫に端末を向けた。
「対象は危険なノイズ体。直ちに処理します」
黒猫が、ハルの後ろに隠れようとした。逃げようとして、また黒い霧に足を取られる。
「こいつ、俺に何もしてない」
ハルは猫の前に立った。男は、少しも表情を変えなかった。
「白紙化シークエンス開始」
端末が花のように展開して、白い光が黒猫を照らした。猫の体から、小さな光の粒がひとつ、またひとつと抜き取られていく。猫が、悲鳴のような声を上げた。
「やだ……消さないで……」
その声は、ハルにしか聞こえていないようだった。
「やめろ!」
「記憶は時に人を壊す。危険な記憶は、消すべきです」
「感情移入じゃない。泣いてるんだよ!」
ハルの叫びと同時に、黒猫の影が、爆発するように膨れ上がった。
教室が、猫のかたちをした夜に飲み込まれた。
天井まで届く巨大な影の猫が、四つの足で机を踏み潰し、光る目でこちらを見下ろしていた。壁にも、窓にも、床にも、白い文字が溢れ出す。
わすれないで。わすれないで。わすれないでええええ。
文字は悲鳴に変わっていた。
けれどハルは、影の胸の奥に見えるものから目を離せなかった。
黒い霧の向こうに、小さな黒猫がうずくまって、泣いていた。

「たすけて」
影の声は、教室中を揺らした。それでも、その声は小さかった。
「強制白紙化に移行します」
記憶庁の男が、二枚目の端末を取り出した。ハルは、その腕をつかんだ。
「まだ中にいるんだよ!」
「あれはもう、感情の暴走です。中も外もない」
「でも、呼ばれたいんだろ」
ハルは影を見上げた。足が震えている。怖い。正直に言えば、逃げ出したかった。
でも、聞こえてしまった。
「俺が聞く。お前の名前も、忘れたものも!」
ハルは、影の中へ飛び込んだ。
黒い水の中を、どこまでも落ちていった。
落ちた先は、雨の通学路だった。
街灯が、ぼんやりと灯っている。水たまりが光を映している。黒い傘が、一本、道端に転がっていた。
「これ……記憶なのか?」
雨の中に、小さな黒猫がいた。震えている。その隣で、子どもの影が泣いていた。
「ひとりにしないで……」
猫の声と、子どもの声が重なって聞こえた。
ハルは、そちらへ歩いた。近づくほどに、景色がはっきりしてくる。
幼いハルがいた。そして、その手を握っている、真っ白な光の子ども。顔は見えない。声だけが、雨の音に混じって届いた。
「絶対、忘れないでね」

ハルは立ち尽くした。
俺は、誰かと約束した。
たぶん、すごく大事な約束だった。
でも、思い出せない。
白い子どもは、ハルが見ている前で、雨に溶けるように薄くなっていった。幼いハルの手だけが、行き場をなくして宙に残った。
雨の中で、黒猫はまだ震えていた。
ハルは、猫の前にしゃがんだ。目線を合わせる。猫が身を引く。それでもハルは、手を伸ばさずに、ただ同じ高さで待った。
「ごめん。俺、お前の本当の名前は知らない」
猫が、ハルを見た。
「それどころか、俺も何か忘れてる。すごく大事なことを」
雨が、少しだけ弱まった気がした。
「でもさ。名前がないまま泣いてるのは、もっと嫌だろ」
猫の口が、小さく開いた。
「名前……ほしい」
ハルはうなずいた。
雨が止んでいく。雲の切れ間に、小さな星がひとつ、ふたつ、見えた。星のかたちの涙模様を、ハルはじっと見つめた。
「夜に泣いてたから……ヨルネコ」
猫の耳が、ぴくりと動いた。
「本当の名前じゃないかもしれないけど。でも、今ここで呼ぶ名前が必要なら……俺はその名前で呼ぶ」
ハルは、手を差し出した。
「ヨルネコ」

黒猫が、その手に、そっと鼻先を寄せた。
黒い霧が、星の粒に変わって、夜空へ昇っていった。
猫の輪郭が、はっきりと定まっていく。深い夜の色の毛並み。大きな耳。長いしっぽ。片目の下の、星の涙。そして首元に、小さな紙の札のようなものが、淡く光りながら生まれた。
札には、文字が浮かんでいた。
名称:ヨルネコ 分類:感情種 記憶:夜に一人で泣いた記憶 契約者:空野ハル
ヨルネコは、ハルの手のひらに頭をこすりつけた。それから、当たり前みたいに肩によじ登った。
「よろしくな、ヨルネコ」
「……ハル」
ハルは目を見開いた。
「俺の名前、わかるのか?」
ヨルネコは答えなかった。ただ、ハルの首元に顔をうずめて、小さく喉を鳴らした。
気がつくと、ハルは元の教室に立っていた。
机も椅子も、元の場所に戻っている。黒板には、白い文字がひとつだけ残っていた。
――ありがとう。
「よかった。消えなかった」
肩の上で、ヨルネコが「にゃ」と鳴いた。
記憶庁の男は、割れた窓の前で立ち尽くしていた。仮面の奥で、初めて感情らしきものが動いた気がした。それでも、口から出た言葉は変わらなかった。
「その個体を引き渡してください」
「嫌だ」
ハルは即答した。
「こいつは物じゃないだろ」
男が一歩、踏み出す。ハルが身構える。
その時、教室の入口から、のんびりした声がした。
「そこまで」
傘を持った若い男が、そこに立っていた。少し猫背で、寝起きみたいな顔をしている。けれど記憶庁の男は、その姿を見た途端に足を止めた。
「修復済みのメモリアを、本人の同意なしに回収。それ、規定違反だよ」
「あなたは」
「通りすがりの、忘れ物係」
男は傘を肩に担いで、ひらひらと手を振った。記憶庁の調査員は、しばらく黙っていたが、やがて端末をしまって窓の外の闇に消えた。
「その子はメモリア」
傘の男は、ハルの肩の上のヨルネコを見て言った。ヨルネコは小さく威嚇した。
「忘れられた記憶や感情から生まれる、小さな命。それがメモリア」
「記憶が……命に?」
「忘れられたものは、消えたくなくて形を探す。猫だったり、傘だったり、ノートだったり。その子は、誰かが夜に一人で泣いた記憶から生まれた」
男は、黒板の「ありがとう」の文字を見た。
「悪い子じゃない。ただ、忘れられていただけだ」
ハルは、肩の上の重みを確かめた。温かい。ちゃんと、生きている重さだった。
男は窓の外を指さした。
夜の灯京市が広がっている。その上に、うっすらと、もうひとつの街が浮かんでいた。宙に浮く道。逆さまの駅。光る川のように流れる何か。
「この街には、表の街と、もう一つの街がある」
「……あれ、何?」
「記憶層。忘れられた記憶が流れ込む場所だ」
男は、ポケットから一枚のカードを出してハルに渡した。「第七修復班」と書いてある。
「戦うことが一番大事なら、君は選ばれてない」
「じゃあ、何が」
「聞くこと」
男は、ヨルネコを顎で指した。
「その子はもう君を選んでる」
男は、雨宮アオと名乗った。
雨宮はヨルネコの首元の札を、指先でつまんで眺めた。名称、分類、記憶、契約者。淡い光の中で文字が並ぶ。
その文字が、一瞬、乱れた。
持ち主候補:空野ハル 欠落記憶:■■■■ 状態:封印済
雨宮の目が、ほんの一秒だけ、真顔になった。
「……何か書いてあった?」
「いや」
雨宮は札から手を離して、いつもの寝起きみたいな顔に戻った。
「メモタグっていうんだ、それ。その子の、名前の証明書みたいなもの。大事にしな」
夜明け前、ハルは校舎の外階段の上に立っていた。
腕の中にはヨルネコがいる。街は、夜の青から朝の色へ、ゆっくりと変わり始めていた。その上に浮かぶ記憶層の街は、朝の光に溶けるように薄れていく。

「なあ、ヨルネコ。俺たち、どこかで会ったことある?」
ヨルネコは答えなかった。ただ、ハルの腕の中で丸くなった。
少し離れた場所で、雨宮が誰かと通信していた。低い声は、ハルには届かない。
「空野ハルを保護対象に」
雨宮は、夜明けの街を見たまま言った。
「大忘却事件につながっている可能性がある」
朝の最初の光が、街の屋根を照らした。
忘れたはずの思い出が、その夜、僕の名前を呼んだ。