
星を喰らった神がいた。
神の名は、アステリオン。
神は死んだ。だが、その骨にはまだ星の力が残っていた。人々は、神の骨に街を築いた。そして千年。私たちは今も、死んだ神の上で朝を迎える。
――巫女がそう歌うのを、湊伊織は聞いたことがない。祭壇のある場所は、彼女の仕事場よりずっと上にある。
その朝、伊織が聞いていたのは聖歌ではなく、骨の軋む音だった。
頭蓋の冠、祭壇地下修繕通路。頭上の大聖堂では千年祭の聖歌が始まっていて、天井の骨を伝って、くぐもった旋律がわずかに降りてくる。その下で、修繕師たちは汗と油にまみれて働いていた。
白い骨の壁を、青白い光が血管のように走っている。星髄だ。神の血と呼ばれ、この都市の灯りと水と機械を動かしている流体。伊織は片膝をつき、第三導管に手のひらを当てた。
細く、高い音。喉の奥で何かが引っかかるような、嫌な音だ。
「第三導管、詰まりかけてます。流れが戻ってきてる」
「正解。逆流する前に抜くよ。排出モード」
先輩修繕師のサエ・ミズハが、通路の向こうから顔も上げずに言った。伊織は右腕に嵌めた星髄修復器〈コア・ステラ〉の環を回す。工具の先端が青く灯り、導管の中の黒い滞留が、ずるりと引き出されて溶けた。流れが戻る。音が、低く穏やかな共鳴に変わる。
「上出来。見習いにしちゃ手が早い」
「音がしたから」
「音?」
「骨の奥が、痛がってるみたいな」
サエは一瞬黙った。工具を握ったまま、伊織の横顔を見る。三十代、口は悪いが面倒見がいい。伊織が肋骨回廊の下層から出てきてこの通路に入った日から、ずっとそうだった。
「……また聞こえたのか」
「はい」
「なら覚えときな。聞こえることより、聞いた後にどうするかの方が大事だ」
サエは立ち上がり、頭上の骨を親指で指した。聖歌が、少しだけ大きくなっていた。
「上じゃ神様の千年祭。下じゃ配管詰まりの千年祭。ありがたい仕事だね」
「上に聞こえますよ」
「聞こえたら直しに来てもらおう。聖歌より水漏れの方が正直だ」
その朝、二人は三つのものを直した。ひび割れた骨橋の三つの亀裂を、流れに沿って順に繋ぎ直した。暴走する小型ポンプの脈動を、拍を数えながら抑えた。最後に、止まっていた祭礼灯へ星髄を少量注ぎ込んだ。
骨の壁のずっと上、聖堂の内側に青白い光が戻るのが、通路の隙間から見えた。
「見たか。あれが修繕師の仕事だ。誰もこっちを見ちゃいない。でも上の連中は、あの光を奇跡だと思って拝む」
「それでも、灯りが戻ったなら」
「……あんたは本当に損な子だよ」
サエはそう言って、伊織の頭を工具の柄で軽く叩いた。
地下から上がると、白骨の聖都が広がっていた。
象牙色の骨がそのまま大聖堂になり、鐘楼になり、巡礼路になっている。頭蓋の冠は、死んだ神の頭の上に築かれた都市だ。眼窩には居住区がはめ込まれ、頭頂には雲海を割って聖堂の尖塔が立つ。遠く、白い肋骨の列が地平まで連なり、その間を吊り橋と市場がぶら下がっている。さらに遠く、背骨の上を走る列車の煙。腕の先の港には空中船の帆。
巡礼者、貴族、聖職者、統合理政の兵、商人。それから、裏口から出てきた修繕師。
「神様の骨の上に立てるなんて、一生に一度のことだよ」
どこかの巡礼者が涙ぐんで言う。貴族の子供が、伊織の油のついた手袋を見て言う。
「修繕師って、骨の中に入るんでしょう? 汚くないの?」
答える前に、統合理政の兵が間に入った。
「祭礼区域は許可証が必要だ。修繕師は裏口を使え」
伊織は頷いて、人混みの縁を歩いた。上層では祝祭、下層では働く人々。この都市はいつもそうだ。伊織は十七年のうち、その大半を下の側で過ごしてきた。
祭壇に、白い衣の巫女が立った。

「死せる星骸よ。あなたの骨に、私たちは家を築きました。あなたの髄に、私たちは明日を灯しました。あなたの沈黙に、私たちは祈りを重ねました」
声は若かった。伊織と同じくらいの年齢だろう。名はミラ。星骸教会の巫女で、千年祭の儀礼役だという。祈りに合わせて、伊織たちが直したばかりの祭礼灯が、青白く脈打った。
儀礼が終わり、人の波が引いたあと、その巫女が伊織のところへまっすぐ歩いてきた。
「あなたが、先ほど祭礼灯を直してくださった修繕師の方ですね」
「見習いです。直したのも、ほんの一部だけです」
「一部でも、祈りは届きました」
「祈りというより、配管です」
ミラは少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「配管を通って届く祈りも、あるのかもしれません」
伊織は返事に困った。祈りが何かを直したところを、見たことがなかったからだ。
異変を最初に聞いたのは、伊織だった。
儀礼のあとの余韻がまだ広場に残っていた。鐘が鳴り、巡礼者たちが聖堂へ列を作る。その音のすべての下から、一本の細い音が伸びてきた。
骨鳴り。それも、ここの骨ではない。
「……違う。ここじゃない」
「どうした」
いつの間にか隣に来ていたサエが、伊織の顔を見る。
「腕の方で、何か切れました」
「腕部? ここから何十キロあると思ってる」
言い終わる前に、空の遠方が青白く光った。遅れて、腹に響く轟音。広場の全員が同じ方角を向いた。雲海の向こう、腕部港湾群の一角で、街区が一つ、ゆっくりと傾いていた。傾いた街区の下には、黒い霧が立ち上っている。黒き時海だ。落ちたものは、二度と戻らない海。
悲鳴が上がる前に、聖堂の上空に巨大な光の窓が開いた。

黒と金の礼装。黒髪を後ろへ撫でつけた、五十歳前後の男。世界統合理政宰相、クロウ・レグナ。伊織も名前だけは知っていた。
「全域へ通達。腕部港湾群第七支区に大規模骨格崩落。星髄逆流、二次崩壊の危険あり」
声には、怒りも動揺もなかった。
「教会儀礼を中断。巡礼者は北側避難路へ。統合理政軍は第三橋梁を封鎖。鉄道帝国には救援列車の優先通行を要請。港湾連合は民間船舶の出港を停止」
「千年祭の最中ですぞ、宰相!」
司祭の一人が叫ぶ。
「祭りは死者を慰めるためにある。生者を増やすものではない。今は避難が先だ」
それだけで、広場の混乱は形を変えた。兵が動き、列ができ、人の流れが北へ向かう。伊織は、その手際に思わず見入った。この男の判断で、今この瞬間に何千人もの命が救われている。それは分かった。
だから、次の命令が余計に冷たく聞こえた。
「第七支区外縁、汀東ブロック、下層船渠、旧作業街は封鎖。構造保持不能。救助資源を投入しない」
汀東。下層。旧作業街。伊織の生まれた汀区と、同じ名の響きを持つ場所。
「まだ娘がいるんです! あの区画に、まだ!」
伊織のすぐ横で、女が膝をついて叫んだ。誰も、その女の方を見なかった。
修繕師用の緊急通路は、広場の裏手、骨の継ぎ目の陰にある。伊織は走った。
封鎖柵の前で、統合理政の兵が二人、槍を交差させた。その向こうの空中に、また光の窓が開いた。今度は小さく、伊織の目の高さに。
「湊伊織。修繕師見習い。君の登録権限では、その通路は使用できない」
「どうして私の名前を」
「災害時に無許可で星髄導管へ接続した者は、記録される」
クロウ・レグナは、伊織を見ていた。何千人を動かしている最中に、見習い一人を見ていた。
「まだ、落ちきってません。支え骨が残ってます。今なら、繋げられるかもしれない」
「可能性はある。だが救助成功率は低い」
宰相の声は、さっきと同じ温度のままだった。
「君が向かえば、救えるのは百人に満たない。私が君を止めれば、救援導線が乱れず、一万人が生きる」
沈黙。
「それでも行くのか」
伊織は、自分の胸の奥に手を当てた。そこに音があった。遠く、細く、けれど途切れていない音。
「……聞こえたんです」
「何が」
「まだ、折れてない音です」
伊織はワイヤーアンカーを撃った。骨の梁に食い込む音。身体が浮き、槍の上を越える。着地と同時に走り出す。背後で、投影の声が淡々と続いた。
「記録。対象、命令違反。ただし射殺は不要。生かして確保しろ」
緊急通路は、骨の内側を通っている。
頭蓋から肩へ、肩から腕へ。神の身体の中を、修繕師だけが知る導管づたいに走る。壁の星髄は、行くほどに乱れていた。青白い流れが濁り、ところどころ逆向きに脈打っている。足元の骨が鳴る。
崩れた足場を、コア・ステラで組み直した。逆流する導管から、汚染星髄を抜いた。閉じた隔壁に星髄を注いで、こじ開けた。暴走するポンプの拍を、抑えた。修繕師の朝と同じ四つの手順。ただし今は、一つ間違えれば落ちる。
通路を抜けると、傾いた街区が目の前にあった。
汀東ブロック。木箱と骨壁の家。乾いた洗濯物。ひしゃげた作業台。街区全体が、二十度ほど傾いて、下から黒い霧を吸い上げていた。
「お母さん、どこ……?」
小さな声。伊織は声の方へ骨橋を渡ろうとして、足元が割れた。
「イオリ、戻れ! そこはもう支えが死んでる!」
通信機からサエの声が割れて響く。
「まだです」
「まだって何が!」
「下の骨が、まだ持ってる」
伊織は割れた橋を再構築し、渡り、六つか七つの少女を抱き上げた。ユノ、と少女は名乗った。母親は上にいる、と伊織は言った。
抱き上げた瞬間、街区全体が、傾きを深めた。
通常の修繕では、間に合わない。伊織にはそれが分かった。骨の声が、はっきりとそう言っていた。

伊織は、コア・ステラの封印を解いた。
「やめろ! それは見習いが触っていい領域じゃない!」
「でも、繋がります」
「繋がるんじゃない。お前が持っていかれる!」
逆脈縫合。修繕師は普通、星髄の流れに沿って直す。流れに逆らえば骨は割れる。だが、崩れ落ちる流れを、逆方向から無理やり縫い止める技術が、一つだけある。教えられたことはない。ただ、伊織は幼いころから、その流れの形を知っていた。
ユノを骨壁の陰に座らせ、伊織は傾いた街区の主梁に、両手を当てた。
支え骨を安定させる。汚染星髄を排出する。それから、逆へ。
コア・ステラの表示が、全部消えた。あとは音と、手のひらに伝わる振動しかない。骨が痛がっている。どこが、どの向きに。伊織はそれを聞きながら、青白い糸を、流れとは反対の向きに通していった。縫う。締める。また縫う。
街区の落下が、止まった。
完全に元へ戻ったわけではない。街区は傾いたままで、家の半分は壊れている。それでも、黒き時海への落下は、止まった。
伊織は、そのまま星髄の中へ落ちた。

白い光。
骨ではない。金属の廊下だった。天井まで届く透明な管が、整然と両側に並んでいる。その一つ一つの中で、人が眠っていた。伊織の知らない服。伊織の知らない顔。どこか遠くで、星が燃えている。
空中に、文字が浮かぶ。読めない文字と、読める文字。
SYSTEM ERROR
INHERITANCE CORE DAMAGED
UNREGISTERED LIFE RESPONSE DETECTED
声がした。人の声ではない。
「修復者認証……失敗。登録外個体……仮承認。骨格保持を優先。記憶封鎖を継続」
廊下の突き当たりに、誰かが立っていた。白い髪の少年。顔は見えない。ただ、こちらを見ていることだけが分かった。
別の声が、耳元で言った。
「見つけた」
伊織は、現実へ戻った。
傾いた街区の上に、雲海から降りる救援の縄梯子が見えた。統合理政の兵の手配だ。ユノの母親が、泥だらけの娘を抱きしめて泣いている。
「お姉ちゃん、ありがとう」
伊織は笑おうとして、膝から崩れた。コア・ステラが過熱して、右腕全体が熱い。手が震えている。
「馬鹿。ほんとに馬鹿だ、あんたは」
通路を走ってきたサエが、伊織を抱え起こした。その向こうから、統合理政の兵が近づいてくる。
「湊伊織。世界統合理政の命令により、身柄を保護する」
サエは伊織を立たせ、背中を旧貨物リフトの方へ押した。肋骨回廊へ降りる、古い荷物用のリフトだ。
「サエさん」
「私は大人だ。大人は、子供を逃がすためにいる」
サエは兵の前に立ち塞がった。伊織はリフトの床に転がり込む。錆びたレバーを引く。骨の壁が、上へ流れていく。サエの背中が小さくなる。

リフトの中で、伊織は自分の手を見た。まだ震えている。手のひらの奥に、さっきの音が残っていた。折れていない音。そして、白い廊下で聞いた、知らない声。
同じ頃、頭蓋の冠の観測室で、クロウ・レグナは一枚の記録を見ていた。見習いの修繕師が起こした、星髄の逆流。それをアステリオンが拒まなかったという事実。
「アステリオンは、彼女を拒まなかった」
宰相は静かに言った。
「湊伊織を生かして確保しろ。彼女は鍵になる」
リフトは降りていく。頭蓋の冠の光が遠ざかり、代わりに肋骨回廊の湿った闇が近づいてくる。
伊織は立ち上がり、コア・ステラの環を握った。まだ熱い。
骨の声は、止まなかった。