
台所のテーブルに、置き手紙を残した。
ちょっと出かけてくる。晩ごはんまでには帰る。みちる
嘘じゃない。この国とあの国の時間の比率なら、ぜんぶ終わらせても、カレーの匂いのする時間には帰ってこられる。ぜんぶ終わらせても——ぜんぶが、うまくいけば。
鞄には、杖と、ノートと、年間パス。それから、椅子の背に掛けたブレザーを着て、玄関で振り返った。
「行ってきます」
誰もいない廊下に言った。言っておきたかった。
外は夕方で、空は普通に、ちゃんと暮れようとしていた。あたりまえのことが、今日はやけにありがたかった。
——ひなた。明後日の校外学習、ちゃんと行くから。お弁当、隣で食べるから。
だから今日だけ、ちょっと遠くまで。
階段を降りて、未知留は足を止めた。
空が、変わっていた。
百年、オレンジと藍色の境目で固まっていた空。その琥珀の帯が——細くなっていた。地平線の際に、燃え残りみたいに一筋あるだけで、あとは藍色が空の天辺まで攻め上がっている。
「……暮れて、きてる」
「ああ」白ウサギの声は静かだった。「百年で、初めてだ。この国に——夜が、来ようとしている」
針の加速は、空の色だった。
お茶会には、寄り道した。寄らなければいけない気がした。
蜂蜜色の灯りは今日も点いていたが、オルゴールの回転が、わずかに遅かった。ぜんまいの緩んだ音。生垣の切れ目まで、帽子屋が出てきた。
出てきて——切れ目の内側で、止まった。
つま先が、見えない線の上でぴたりと揃う。そこが、彼の世界の果てだった。百年、そこから先へは行けない人の、行けなさの形を、未知留は初めて目で見た。
「やあ、お嬢さん。……空、見たかい」
「見た。だから、行ってくる」
「うん」
帽子屋は、ポケットから飴色の懐中時計を出した。蓋は開いたまま。針は6時のまま。
それを、切れ目の線の上から、両手で差し出した。
「持っていって、くれないか」
「……いいの? これ、あんたの」
「針を巻くのは、時計の外の手だ。うちの家訓でね」帽子屋は笑った。「僕はここから出られない。だから——僕の時計だけ、連れて行ってやってほしいんだ。いちばん、いいところへ」
未知留は、両手で受け取った。飴色の蓋が、体温であたたかかった。百年止まっている時計の、持ち主のぬくもりだった。

「配達料は?」
聞くと、帽子屋は目を細めた。
「着払いで。——戻ったら、みんなで茶を一杯」
屋台の陰では、老婆が待っていた。
背中に、あの長い刻み板を、風呂敷で斜めに背負って。
「……おばあさん。それ、重くない?」
「重いさ」老婆は当然のように言った。「名前ってのは、重いんだよ。……で、あんたたちだけで行かせると思ったかい。名前の読み上げ係が要るだろう、向こうで」
読み上げ係。
未知留は、その意味を聞き返さなかった。聞き返さなくても、わかる夜だった。
広場を通ると、足が止まった。
ハートマークが——灯っていた。誰も杖を振っていないのに。噴水の縁が、屋台の庇が、石畳のタイルが、ぽつ、ぽつ、と橙色に息をしている。城の方角から届く鼓動に合わせて、点いて、消えて、また点いて。
その灯りのいちばん明るいところに、クラブの10の兵が、立っていた。
未知留は、歩み寄った。杖は、抜かなかった。代わりに、毎晩やってきたことを、声に出してやった。
「ロディ。衛兵見習いの、迷子係の、ロディ」
札が、震えた。
「祭りの日は迷子係で。ちびすけたちを灯りの下に集めて。親が見つけるまで、歌をうたってやってた——ロディ」
顔の札が、薄れる——のでは、なかった。
剥がれた。
クラブの10の札が、乾いた葉っぱみたいにぺりりと浮いて、はらりと落ちて、地面に着く前に光の粒になってほどけた。木偶の鎧が同じように剥がれて、崩れて、光になって——そのあとに、若い男が一人、立っていた。
そばかす。人の好さそうな顔。着古した衛兵見習いの、簡素な服。
青年は、自分の両手を見て、握って、開いて、それから未知留を見た。
「……よう」
生きている声だった。札越しじゃない、まっすぐの声。
「あんたが、俺の名前を、ずっと呼んでたのか」
「……うん。毎晩」
「道理で」
ロディは、くしゃりと笑った。
「夢のなかが、ずっと、あったかかった」

「にしても、参ったな」ロディは広場を見回した。「百年寝てた迷子係の、最初の仕事がこれか」
「これ、って?」
「見なよ、お嬢さん。——国じゅう、迷子だらけだ」
ロディは、倒れた屋台の陰から、古いランタンを拾い上げた。迷子係の商売道具。ハートの彫りの入った、把手の擦り切れたランタン。灯りの下にかざすと、それはすぐに橙色を宿した。
ロディは、それを高く掲げて、息を吸って——百年ぶりの、迷子係の声で叫んだ。
「——迷子はこっちだ! 灯りの下に集まれ!」
夜色の国に、声が渡った。
最初の一体は、広場の縁から来た。かちゃ、かちゃ、と。次は道の向こうから二体。丘の陰から、三体。スペードの4。ハートの7。ダイヤの騎士。行進ではなかった。足並みは揃っていなくて、速さもばらばらで——集まって、きていた。
迷子が、灯りに集まるみたいに。
「そうすりゃ、親のほうが見つけてくれる」ロディはランタンを掲げたまま、未知留に笑いかけた。「な、簡単だろ」
親のほうが。
みんなの親——みんなのハートを預かってきた人の方が。
城への丘を、行列が登った。先頭にランタンのロディ。その隣に未知留と白ウサギ。すぐ後ろに、刻み板を背負った老婆。そのまた後ろに、何十体の兵たち。城門では門番のクラブのJが、山高帽のひさしに手を当てて、全部を迎え入れた。

玉座の間の大扉の前で、行列は止まった。
白ウサギが、懐中時計を開いた。
星空のような粒。そして針は——真夜中の、髪一本手前にいた。指一本ではない。髪一本。見ている間にも、それはわずかに、確かに、詰まっていく。
「時間だ」白ウサギが言った。百年、時間を告げてきた者の声で。ただし今夜のそれは、終わりの合図ではなかった。「——始めるのに、ぎりぎり間に合う時間だ」
頭の上で、猫の声がした。
「役者は揃った。配牌も終わり。あとは、最後の一枚をめくるだけ」
声は、未知留の耳元まで降りてきて、いつになく、やわらかく言った。
「行っておいで。——僕の勝ちを、取ってきて」
未知留は、頷いた。
ポケットの中で、帽子屋の時計があたたかい。鞄の中で、ノートの名前たちが静かだ。背中に、百年ぶんの行列がいる。
大扉に、手をかけた。
その前に——扉の向こうから、低く、乾いた、床から響くような声がした。
「——お入り、客人」
百年、変わらなかった声が、今夜だけ、ほんの少しやわらかかった。
「百年、待たせたね」
(第23章 了)