
放課後。今日の国までは、三十分ちょうど。
「記録タイだね」
「何と並んだのだね、何と」
帽子箱は、思ったよりかさばった。両腕で抱えて丘を越えると、城のシルエットが近づいてくる。この道を歩くのは三度目だ。一度目は連行で、二度目は自分の足で、三度目は——おつかい。だんだん、扱いが軽くなっている気がする。
城門の前には、今日も兵が並んでいた。
スペードの4。クラブの7。ダイヤの騎士。そして、門のいちばん近く、左手の定位置に、ひときわ大きな一体が立っていた。
顔の札は——クラブのJ。
未知留は、足を止めた。
絵札だ。数字ではなく、人物の描かれた札。壁の高い場所にあるものだとばかり思っていた。城門に、立っているなんて。
——よく持ちこたえたね。
女王のあの言葉が、耳の奥で反響した。末期まで自我を保った者への、本心の労い。絵札は、その証なのだと、今なら分かる。
この人は、最後まで、持ちこたえた側の人だ。
「届け物です」
未知留は、クラブのJの兵の前に立って、帽子箱を掲げた。
兵は、動かない。それはいつものことだ。
「お茶会の、帽子屋さんから。……起こすんじゃなくて、渡したいだけ。いい?」
断ってから、振る。いつもの礼儀で、いつもの小さな一振り。ただし今日は、杖の先を箱に沿わせるように通した。この箱には、百年ぶんの注文が詰まっている。残響なら、たっぷりのはずだった。
クラブのJが、薄れた。
札の下から現れたのは、岩みたいな老人だった。
大きい。ロディの倍はありそうな肩幅。白い豊かな髭が鎧の胸まで垂れて、目尻の皺は深く、優しい。岩の裂け目みたいな目が、ゆっくりと開いて——箱を、見た。
「……おお」
低い、地鳴りみたいな声だった。
「届いたか」

「番号札の百十六番。灰色の山高帽、つば広め、飾りは無し。……あいつ、覚えてやがったか」
老兵は、箱を岩みたいな手で受け取って、薄紙ごと、壊れ物みたいにそっと開けた。
灰色の山高帽が、蜂蜜色の薄闇の中で、静かに艶を放った。
「注文したのは、引退の三月前でな。引退したら、鎧を脱いで、これを被って、女房と栗の屋台を冷やかしに行くつもりだった」
「……被ってみたら」
「おう」
老兵は、山高帽を、両手で頭に載せた。
大きな体に、灰色の帽子は、あつらえたようにぴったりだった。当たり前だ。あつらえたのだから。百年前に、この人のためだけに。
「——どうだ」
「似合う」
「だろうなあ」老兵は、声を立てて笑った。「あいつの帽子が似合わなかったやつを、わしは見たことがない」
それから老兵は、ふと真顔になって、箱の底の薄紙を撫でた。
「頼んだ日のことは、昨日みたいに覚えてるのに。……引退の日は、来なかったなあ」
未知留は、何も言わなかった。言わない、を選べるようになったのは、この国で覚えたことのひとつだ。
「あ。伝言。配達料は着払いだって」
「ほう?」
「次の6時に、お茶を一杯、だって」
老兵は、一瞬きょとんとして——それから、城門が揺れるかと思うほど笑った。
「はっはっは! 着払いか! なら引退したら行くさ。この帽子を被って、な」
「ねえ。……聞いていい?」
解凍は、今日も長く保っていた。白ウサギはもう狼狽えなかった。代わりに懐中時計を出して、開いて、じっと文字盤を見ていた。「またか」の顔で。何かを、数え直す顔で。
「あんたは、絵札なんだよね。最後まで、その……持ちこたえた側」
「おう」
「どうやって? みんな、名前から消えてったのに」
老兵は、髭を撫でた。
「わしはな、いいものを、ひとつ見すぎたんだ」
「いいもの?」
「陛下だよ」
老兵の声が、少し柔らかくなった。
「陛下はな、昔——門を通る誰にでも、名前を聞いたんだ」
「……名前を?」
「おう。物売りにも、旅の楽師にも、迷い込んだ子どもにもな。門番のわしが名簿を出そうとすると、いらない、と言う。自分の耳で聞くんだと。……名前を呼ばれるとな、お嬢さん。人は、ここに居ていいんだと、思うのさ」
未知留の中で、いくつもの欠片が、かちりと音を立てて嵌まっていった。
名前=輪郭。名前を数えて生きる老婆。名前を聞く女王。全員のハートを預かる者。この国の保存措置が、なぜ「名前ごと」魂を仕舞う形をしているのか——原点は、たぶん、そこだ。
「その頃の陛下って、なんて呼ばれてたの」
聞いた瞬間、老兵の目が、すっと細くなった。
「知ってるよ」
「教えて」
「——教えない」
きっぱりと、岩を置くような拒否だった。
「あれはな、陛下が自分で捨てた呼び名だ。拾っていいのは、陛下だけさ」
未知留は、引き下がった。この国の人たちの「言わない」には、ぜんぶ理由がある。それも、覚えたことのひとつだ。
「……ひとつだけ、昔話をしてやろう」
老兵は、城門を見上げた。
「百年前の、あの晩。——この門は、内側から閉まった。わしが閉めたんじゃない。陛下の命令でもない。門がな、自分で閉まったんだ。国がそうしたがってるみたいに」
「……それで?」
「三日三晩、開かなかった。中から、音ひとつしなかった。……開いた時にはな」
老兵は、そこで言葉を切った。髭の奥で、何かを飲み込む音がした。
「——陛下は、いまの陛下になっていた」

輪郭の端が、揺れ始めた。
「おっと。時間だ」老兵は、他人事みたいに自分の手を見た。「箱は、もらっていくぜ。……いや、箱ごとは無理か。帽子だけな」
「うん。箱は、私が」
「おう。——ああ、それと」
札に戻りかけた老兵の目が、ふいに、未知留の後ろへ動いた。
未知留の斜め後ろ。視界の端の定位置に立っていた、白ウサギへ。
「——よう、時計屋」
白ウサギの耳が、跳ねた。
「あの子の忘れ物、まだ探してるのかい」
未知留は、振り向いた。
白ウサギは、固まっていた。傘を抱えたまま、ゴーグルの下の目を見開いたまま、彫像みたいに。百年慌て続けてきた兎の、慌てることすら忘れた顔を、未知留は初めて見た。
「じゃあな、客人。茶会で会おう」
クラブのJの札が、閉じた。
そこには兵が立っていた。白い平面の鎧、木偶の関節、札の顔。ただ一つ——頭の上に、灰色の山高帽だけが、そのまま残っていた。門番の兵は、山高帽を被ったまま、定位置に戻った。妙に、誇らしげに見えた。
帰り道、未知留は聞いた。
「時計屋って、何」
「…………」
「あの子の忘れ物って、何」
「——こちらの話だ」
いつもの答え。でも、いつもと違った。白ウサギの耳は、丘をふたつ越えても、伏せられたままだった。

その夜。
宿題の前にノートを開いた未知留は、先週の自分のメモの上で、手を止めた。
赤いばら。だれ?
「…………なんだっけ、これ」
思い出すのに、二呼吸かかった。絵の具屋。ダイヤの3。あの色。——思い出した。すぐ思い出した。すぐ、だったけど。
二呼吸。
未知留は、メモの隣の「ひなた」の字を、上からもう一度、なぞって濃くした。
(第16章 了)